第92話 vs魔族
沸騰海域の深海。
背後ではフォニアとリフィアの激突が深海全体を揺さぶり続けているが、アマルは構わず前進した。テオの指示のもと、岩柱の陰を縫うように進み、神炎の炉の外壁付近へと静かに接近していく。
「……でかいな」
ルシアが水雷石の青い光の先を見据えながら呟いた。
炉の外壁は、想像を遥かに超える巨大さだった。黒い岩盤が幾重にも積み重なり、その表面には魔族特有の呪いの紋様が無数に刻まれている。外壁に沿って黒い軍艦が停泊し、甲板の上には完全武装した魔族の兵士たちが蠢いていた。
「入り口はどこだ」
ルシアがテオに問う。
「海流図によると……炉の南側に、人間を運び込むための搬入口があるはずだ。黒い軍艦が定期的に出入りしてる場所だよ」
テオが老漁師から受け取った羊皮紙を広げながら答えた。
「黒い軍艦の動きに合わせて紛れ込む、ということか」
「うん。軍艦が搬入口に接舷するタイミングで、アマルをその陰に滑り込ませる。上手くいけば気づかれずに中に入れるはずだ」
「上手くいかなかったら?」
マイヤが問う。
「……その時は力技で」
テオが苦笑いした。
「最初からそっちにしよう」
マイヤが包丁の柄を叩いた。
「力技はあくまで最後の手段だ。まず静かに入る」
ルシアが遮り、テオに頷いた。
アマルがさらに速度を落とし、岩柱の最も大きな陰に身を潜めた。水雷石の光すら絞り込み、船内が暗闇に包まれる。
待つこと数分。
重い駆動音と共に、巨大な黒い軍艦が炉の南側へと向かい始めた。船腹には無数の鎖がぶら下がり、その先に繋がれた人間たちが、力なく揺れている。
「……今だ」
テオが小さく言った。
アマルが岩柱の陰から滑り出し、軍艦の影に張り付くようにして南側へと移動していく。軍艦の巨大な船体がアマルを完全に隠し、甲板の魔族兵たちの視線を遮った。
搬入口が見えてきた。
炉の外壁に穿たれた巨大な開口部。そこから赤い光と熱気が漏れ出し、深海の冷たい水と混ざり合って、境界線上に白い蒸気の渦を作っていた。
軍艦が接舷し、搬入口のハッチが開く。
「今!」
テオの指示と共に、アマルが軍艦の陰から搬入口へと一気に滑り込んだ。
ズズズズズッ……!
船体が搬入口を通過した瞬間、外の水圧と熱気が遮断され、代わりに炉の内部の熱い空気が船体を包んだ。
「……入れた」
テオが息を吐く。
「ハッチを開けるぞ」
ルシアが立ち上がった。
アマルがスライム形態へと縮小し、ルシアたちが炉の内部へと降り立った。
炉の内部は、地獄だった。
天井は遥か高く、赤いマグマの光が壁面を照らし、熱気が全身を包む。だが、それよりもルシアたちの目を釘付けにしたのは——。
「……ッ」
ステラが息を呑んだ。
巨大な空間の中央に、無数の鉄格子の檻が並んでいた。その中に、老いた者も若い者も、男も女も、子供までもが押し込められている。全員が鎖に繋がれ、虚ろな目で床を見つめていた。檻の周囲を魔族の兵士たちが闊歩し、炉の奥では赤黒いマグマが轟音と共に噴き上がっている。
「あれが培養プラントか……」
テオが顔を青ざめさせた。
炉の奥深く、マグマの熱を直接受ける区画に、巨大な金属製の筒が何本も立ち並んでいた。筒の中には人間が一人ずつ収められており、外側から魔族の術師たちが呪いの紋様を刻み込んでいく。筒の中の人間は苦悶の表情を浮かべながらも、声すら出せない状態だった。
「……許せない」
マイヤが低く、絞り出すような声で言った。
その時だった。
「おい、何者だ!!」
搬入口の近くにいた魔族の兵士が、ルシアたちに気づいて叫んだ。
周囲の兵士たちが一斉に振り返り、武器を構える。
その中の一体が、ルシアの顔を見た瞬間、嘲笑うような表情を浮かべた。
「……ほう? 人間の剣士か」
兵士は仲間たちに向かって、わざとらしく大声で言った。
「見ろよ。王都でザガン様に手も足も出なかった、あの哀れな剣士じゃないか。這いつくばって震えていたあの男が、わざわざここまで死にに来たか」
周囲の魔族兵たちがどっと笑い声を上げた。
「ザガン様は今頃、王都でお前の首を待ってるぞ。せっかくだから、土産に持っていってやろうか」
ルシアは無言だった。
ただ、純白の剣の柄に手をかけ、相手を静かに見据えた。
(……下位魔族の兵士。ザガンより格は落ちる。王都の時の俺と今の俺、どれだけ差がついたか——測らせてもらう)
「無視か! 舐めた真似を! 来い!!」
先頭の魔族が紫黒の爪を振りかぶり、ルシアへと突進してきた。
ルシアは躱した。だが、ギリギリで。
爪がルシアの肩口を掠め、衣服を裂く。
「ほう、避けたか。だが——」
次の一撃。ルシアは剣で受けた。だが受け止めるのに一瞬の遅れがあった。衝撃で後退する。
「やはり大したことはないな! 王都でザガン様に完敗した男が、今更何ができる!」
魔族兵たちが包囲を狭めてくる。
ルシアは後退しながら、一体一体の動きを丁寧に観察した。
(速さはこれくらい。力はこれくらい。攻撃の癖は——右の爪を先に出す。踏み込んだ瞬間の一歩目に隙がある)
「苦戦してるじゃないか! やっぱりお前には無理だ! 王都でザガン様に膝をついたあの日から、何も変わっていない!」
「ルシアくん!」
ステラが心配そうに叫ぶ。
「大丈夫」
ルシアが静かに言った。
その声のトーンに、ステラが口を閉じた。
先頭の魔族が三度目の突進をしかけてきた、その瞬間。
「……もう十分だ」
ルシアの呟きと同時に、彼の周囲の空気が変わった。
足の先から炉の熱気を纏うマナを引き上げ、心臓を通し、腕から剣先へと循環させる。王都では力任せに圧縮するだけだった魔力が、今は血液のように自然に全身を巡る。
先頭の魔族の踏み込みの一歩目。
ルシアは動いた。
シュッ……!
音すら置き去りにした一閃。
先頭の魔族の紫黒の鱗の鎧が、肩口から腰にかけて、まるで紙を裂くように両断された。致命傷は与えていない。だが魔族は激痛に呻き、その場に崩れ落ちた。
「なっ……!?」
周囲の魔族兵たちが、一瞬で動きを止めた。
ルシアはすでに次の一体へと向かっていた。
踏み込み、循環、一閃。また次へ。踏み込み、循環、一閃。
王都でザガンに手も足も出なかった剣士は、もうどこにもいなかった。
魔力の無駄が一切ない。腕の血管が千切れるような無茶もない。ただ、川が流れるように自然に、純白の剣が弧を描くたびに、下位魔族の鱗鎧が次々と両断されていく。
十秒もかからなかった。
二十体以上いた下位魔族の兵士たちが、全員武装を失って炉の床に沈んでいた。
シン……と、炉の内部に静寂が戻る。
ルシアはゆっくりと剣を収め、仲間たちの元へと戻った。
「……最初から手を抜いてたのか」
マイヤが呆れたように言った。
「ああ」
ルシアは静かに頷いた。
「王都でザガンに完敗してから、ずっと疑問だった。あの時の俺はどれだけ弱かったのか。今の俺はどれだけ強くなったのか。……同じ格の相手と戦ってみないと、測れなかった」
「で、結果は?」
テオが恐る恐る聞く。
ルシアは少し考えてから、静かに答えた。
「下位魔族なら、今の俺でも十分に戦える。だが——」
彼の瞳が、炉の奥深くへと向いた。リフィアの気配が、そこから滲み出している。
「あの領域には、まだ遠い」
船内に、静かな緊張が漂った。
ルシアが前を向き、炉の奥の檻へと視線を向けた。鎖に繋がれた人間たちが、虚ろな目でこちらを見ている。その中に、老漁師が話していた息子の姿があるかもしれない。
「まず、あの人たちを助ける。それが最初だ」
全員が頷いた。
純白の剣を抜いたルシアを先頭に、一行は炉の奥へと進み始めた。




