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剣士転生-たった一つの基礎魔法で世界を両断する-  作者: きゃみちゃま


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第91話 千年の姉妹

それは、静かにやってきた。


爆発的な魔力の奔流でも、轟音を伴う突進でもない。

ただ——深海の水が、割れた。


神炎の炉(しんえんのろ)の方向から、まるで海そのものが道を開けるように左右に押し退けられ、漆黒の深海に一本の「通路」が形成されていく。その通路の奥から、ゆっくりと、しかし確実に、一つの影が近づいてきた。


外見は、フォニアとは似ても似つかなかった。

長身で、しなやかな四肢。漆黒の翼は大きく、白い肌は滑らかで、深紅の瞳は感情を一切映さないガラス玉のように澄んでいる。双子の姉妹と聞かなければ、まず結びつかないほどに対照的な姿。

「……」

フォニアが、一瞬だけ自分の小さな手を見下ろした。封印によって力を削がれた結果として押し込められた、この幼い姿。本来であれば、目の前の妹と同じく、魔族としての本来の姿があるはずだった。だがそれを取り戻す前に、儂は——。

フォニアは静かに視線を上げ、妹の顔を真っ直ぐに見据えた。

表情は一切なく、瞳には感情の揺らぎが微塵もない。ただ、その小さな体から発散される魔力の圧力が、船体の蒼海銀装甲を外側からじわりじわりと押し潰そうとしていた。


「ピギィィィッ!!」


アマルが苦痛の駆動音を上げた。


「装甲に負荷がかかってる……! 何もしてないのに、存在してるだけで船体が軋む!?」


テオが慌てて計器を確認しながら叫んだ。


「……来おったな」


フォニアが、誰よりも静かな声で呟いた。

その小さな体が、テオのコートの陰から船内の前方へとゆっくりと歩み出る。いつもの軽薄な笑みも、面倒くさそうな欠伸も、今のフォニアにはなかった。


「アマルのハッチを開けろ」


フォニアがテオに言った。


「え!? 開けたら深海の水が——」


「我輩が抑える。……開けろ」


テオはルシアと視線を交わし、それからアマルに指示を出した。


ガシャンッ。


ハッチが開いた瞬間、凄まじい水圧が船内へと押し寄せようとした。だがフォニアが片手を掲げると、水圧は見えない壁に阻まれたように完全に静止した。フォニアの魔力が、深海の水圧そのものを押し返しているのだ。

フォニアは開いたハッチの縁に立ち、深海の闇の向こうに浮かぶ影を真っ直ぐに見つめた。


「久しいのう、リフィア」


影が、初めて動いた。


「……姉様」


声は、見た目と同じく感情を削ぎ落とした、透明なガラスのような声だった。


「千年ぶりじゃな。まったく、儂が封印されている間に随分と派手なことをしてくれたものじゃ」


「派手?」


リフィアが、わずかに首を傾げた。


「千年前に姉様が封印される前、この世界には何があった? 争いがあった。飢えがあった。弱い者が踏み躙られ、強い者が支配し、人間も魔族も等しく醜い欲望の中で生き死にしていた。……私はそれを、終わらせようとしているだけ」


「終わらせる? 人間を素体にして悪魔を量産し、世界を征服することが『終わらせる』ことじゃと?」


「そう」


リフィアは迷わず答えた。


「人間は弱い。魔族は争う。どちらも不完全な存在だ。ならば、両者を融合させた『完全な存在』を新たに生み出し、この世界を作り直せばいい。争いも、飢えも、弱者も存在しない、完璧な世界を」


船内に、重い沈黙が落ちた。


「……それは」


ステラが震える声で言った。


「今ここで生きている人間を、全員消すってこと?」


リフィアの深紅の瞳が、初めてステラへと向いた。


「消すのではない。作り直す。……痛みは一瞬だ。その後に訪れる完璧な世界の前では、些細なことに過ぎない」


「些細だと……ッ!」


マイヤが包丁を掴んで立ち上がった。


「些細じゃないだろ!! アタシの客たちが、アタシの作った飯を食って笑って、また明日も生きていく。そのどこが些細なんだ! お前みたいな化け物に、人間の命を『素材』扱いされてたまるかッ!!」


マイヤの怒りに、幻の霊火(げんのれいか)が包丁の刀身からゴウッと噴き上がった。深海の水圧の中でも、青白い業火は消えることなく燃え続けている。


リフィアはその炎を一瞥し、それからフォニアへと視線を戻した。


「……姉様。その人間たちと共にいるのか」


「いかにも」


「なぜ。姉様は魔族だ。人間の側に立つ理由がない」


「理由など必要か?」


フォニアは鼻を鳴らした。


「儂は平和主義じゃ。お前の言う『完璧な世界』とやらは、儂の目には完璧な退屈にしか見えん。争いも、飢えも、弱者もない世界? ……笑わせるな。それは世界ではなく、ただの標本箱じゃ。生きているものが、生きているからこそ持つ矛盾や醜さや、それでも諦めない意志——そういうものが全部消えた世界など、儂には何の価値もない」


「……姉様は、何も変わっていない」


リフィアの声に、初めて微かな感情の揺らぎが混じった。


「千年前も、今も。姉様はいつも、そうやって世界の醜さを肯定する。だから姉様が封印された時も、私は止めに行かなかった」


フォニアの表情が、一瞬だけ揺れた。


「……儂が封印された時、お前はどこにいた」


「見ていた」


リフィアは静かに答えた。


「エルフたちが姉様を封印する様を、遠くから見ていた。……止めようとすれば、私も封印されていた。だから見ていた」


「……なるほどのう」


フォニアは深く息を吐いた。


「つまり、儂が千年間封印されている間に、お前は一人でこの計画を練り続けていたわけじゃ。儂がいなくなったことで、止める者がいなくなったと判断して」


「そう。……姉様がいなければ、もっと早く完成していた。だが、封印が解けた気配を感じた時、私は思った。姉様ならば、この計画の完璧さを理解してくれるかもしれないと」


「理解?」


フォニアの眉が、わずかに上がった。


「姉様に、この計画に加わってほしい。姉様の力があれば、完成はさらに早まる。……二人で、この世界を作り直そう」


深海の沈黙が、重く、深く、船内を満たした。

フォニアはしばらく何も言わなかった。

深紅の瞳が、千年ぶりに再会した妹の無表情な顔を、静かに見つめ続けた。


「……リフィア」


フォニアはやがて、低い声で言った。


「お前が千年間、一人でこの計画を抱え続けてきたことは分かった。お前なりに、本気でこの世界をよくしようとしていることも、儂には分かる」


リフィアの瞳が、わずかに揺れた。


「だが」


フォニアの声が、静かに、しかし揺るぎなく続いた。


「儂は断る」


「……なぜ」


「決まっておろう」


フォニアは振り返り、船内のルシアたちを一瞥した。

死の迷宮を共に突破し、深海の番人を撃退し、今もこの場で息を呑んで成り行きを見守っている、不器用で、愚かで、それでも諦めない人間たち。


「こいつらと一緒に飯を食って、こいつらの戦いを特等席で見届けると決めたんじゃ。……お前の計画に付き合っている暇はない」


リフィアは長い沈黙の後、静かに目を閉じた。


「……分かった」


そしてゆっくりと目を開けた時、その深紅の瞳から、最後の感情の揺らぎが完全に消えていた。


「ならば、姉様も排除する」


直後。

深海全体が、震えた。


リフィアの小さな体から解き放たれた魔力が、津波のように四方八方へと広がり、岩柱を粉砕し、黒い軍艦を大きく揺さぶり、神炎の炉のマグマを逆流させるほどの圧力となって、アマルの船体へと叩きつけた。


「ピギィィィィィッ!!!!」


アマルが悲鳴を上げ、蒼海銀の装甲にびしびしとひびが走り始めた。


「装甲が……! この一撃で!?」


テオが蒼白になって叫んだ。


「フォニア!!」


ルシアが叫ぶ。


「……儂が抑える」


フォニアがハッチの縁に仁王立ちし、両手を前に突き出した。

漆黒の羽が大きく広がり、一割の力しかないはずのフォニアの魔力が、全力で解放される。リフィアの魔力の奔流と正面からぶつかり合い、深海の空間そのものが歪み始めた。


「……みんな、今すぐ炉に向かえ!!」


フォニアが歯を食いしばりながら叫んだ。


「お前は!?」


ルシアが問う。


「儂がリフィアを抑えている間に、囚われた人間たちを解放して、炉を止めろ! それだけが、この計画を終わらせる唯一の方法じゃ!!」


「……必ず戻ってくる」


ルシアがフォニアの目を真っ直ぐに見た。


「フン。誰がお前の心配をしておるか。さっさと行け、このポンコツ剣士め!!」


テオがアマルに全速力の指示を出した。

漆黒の船体が深海を疾駆し、フォニアとリフィアの激突が引き起こす衝撃波を背後に受けながら、神炎のしんえんのろへと一直線に突き進んでいく。


背後で、深海を揺るがす轟音が響き続けていた。

千年ぶりの姉妹の決着が、深海の闇の中で始まろうとしていた。

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