第89話 アマル潜航形態
夜明け前の廃港。
まだ薄暗い空の下、波止場には人影一つなかった。
遠くの海面から立ち昇る蒸気が、朝靄と混ざり合い、港町全体を白く霞ませている。
「……行くか」
ルシアが立ち上がった。
廃倉庫の陰で仮眠を取っていた一行が、無言で立ち上がる。
マイヤが巨大包丁を背負い直し、ステラが白金色の杖を握りしめ、テオがアマルに向かって静かに話しかけた。
「アマル。頼むぞ」
「ピュイッ」
テオの腕の中でスライム形態だったアマルが、応えるように一度跳ねた。
波止場の端、桟橋の先端まで歩き出ると、沸騰海域の全貌が目の前に広がった。
「……」
誰も言葉が出なかった。
海面は、見渡す限り白い蒸気に覆われている。
普通の海なら朝日が反射してきらきらと輝くはずの水面が、ここでは鈍く、黒く、まるで巨大な生き物の皮膚のようにゆっくりと波打っていた。
近づくだけで肌がじりじりと焼けるような熱気が押し寄せてくる。
「本当に沸騰してるんだね……」
テオが生唾を飲み込んだ。
「当たり前じゃ。千年前からずっとこうじゃ。……儂が封印されておる間も、ずっとこの調子じゃったのじゃろうな」
フォニアが腕を組んで海を見下ろした。
その赤い瞳が、蒸気の向こうの何かを見据えるように細くなる。
「妹の気配は?」
ルシアが問う。
「濃い。真下じゃ。……間違いなく、あの海の底におる」
ルシアは海流図を一度だけ確認し、折りたたんで懐にしまった。
「テオ、頼む」
「うん。……アマル、変形開始だ」
テオが両手を広げると同時に、手のひらサイズのスライムが波止場の上にドロリと広がり始めた。
漆黒の流体が、見る見るうちに膨張していく。純鉄ギアが内部で噛み合う低い駆動音が響き、蒼海銀の装甲パネルが次々と展開されて外殻を形成していく。
流線型の船体、密閉型のハッチ、内部に張り巡らされたアマル自身の弾力性のある身体がクッションとなり、極限の水圧を受け止める構造が完成していった。
ガシャンッ!
最後の装甲パネルが噛み合い、蒼海銀の鈍い輝きを纏った潜航形態のアマルが、波止場の上に静かに鎮座した。
「……でかいな」
マイヤが見上げながら呟く。
「全長は機巧獣フェンリルと同じくらい。でも重心が低くて安定してる。蒼海銀が外部の超高温を完全に弾いて、アマルの弾力が水圧を分散・吸収する。魔力に頼らない純粋な物理構造だから、どれだけ深く潜っても絶対に潰れない」
テオが誇らしげに胸を張った。
「……絶対、って言葉は好きじゃないけどね」
ステラが苦笑いする。
「今だけは信じてよ!」
ハッチが開き、一行は順番に内部へと乗り込んだ。
思ったより広い船内は、アマルの漆黒の身体が内壁を柔らかく覆っており、座席代わりの膨らみまで形成されている。
テオが前方の操縦席に腰を下ろし、計器盤にはめ込まれた水雷石がほんのりと青い光を放った。
最後にルシアが乗り込み、ハッチが重い音を立てて閉まった。
外界との完全な遮断。
船内に、一行の息遣いだけが静かに響く。
「全員、準備はいいか」
ルシアが短く確認する。
「いつでも」
「うん」
「我輩は寝る」
「アタシは腹が減った」
ルシアは呆れたように息を吐き、テオに頷いた。
「行くぞ、テオ」
「うん。……アマル、潜航開始だ」
ズズズズズッ……!
アマルの船体が波止場の端からゆっくりと滑り出し、沸騰海域の海面へと降りていった。
触れた瞬間、船体の外側でジュウウウウッ!!という凄まじい音が響いた。
沸騰する海水がアマルの蒼海銀装甲を叩きつけているのだ。
だが船内の温度は微塵も変わらない。蒼海銀が、文字通り完璧に熱を遮断していた。
「す、すごい……本当に熱くない」
テオが感嘆の声を上げた。
「当たり前だ。アタシが設計を信じて潜ったんだから、ちゃんと機能してもらわなきゃ困る」
マイヤが腕を組んで頷く。
ズブズブズブ……っ。
船体が海面に沈み込んでいく。
外部の音が徐々に遠ざかり、代わりに深海特有の低く重い圧迫感が船体全体を包み込み始めた。
水雷石の青い光だけが、船内をぼんやりと照らしている。
テオが操縦席で老漁師の海流図を広げ、ルートを確認しながらアマルに指示を出し続ける。
ステラが船内に充満する微細な魔力の流れを感知しながら、異常がないかを常時監視する。
マイヤは目を閉じて腕を組み、まるで何でもないように静かに座っている。
フォニアは座席に丸まって本当に寝始めた。
そしてルシアは、純白の剣の柄に手を置いたまま、前方の暗闇を静かに見据えていた。
深度が増すにつれ、外の景色が変わっていく。
最初は沸騰する海水の泡と蒸気だけだった視界が、徐々に落ち着きを取り戻し始めた。
水雷石の光が届く範囲に、見たこともない深海の生物が漂っている。
発光するクラゲのような生き物、巨大な黒い魚の影、そして——海底から天を貫くように伸びる、無数の黒い岩柱。
「……綺麗だね」
ステラが思わず呟いた。
「綺麗な場所ほど、ヤバいもんが潜んでる。気を抜くな」
ルシアが静かに返す。
さらに深度が増した、その時だった。
テオが操縦席で息を呑んだ。
「……ルシアくん。前方を見て」
水雷石の青い光の届く限界の先。
漆黒の深海に、鈍く赤い光が揺らめいていた。
まるで海の底に、巨大な炉が燃えているかのように。
「あれが……」
「神炎の炉じゃ」
いつの間にか目を開けていたフォニアが、低い声で呟いた。
その赤い瞳が、深海の赤い光を映して揺れている。
「……そして、あそこに妹がおる」
船内に、重い沈黙が落ちた。
赤い光は遠く、しかし確実に近づいていた。




