第88話 廃港
沸騰海域の手前。
海岸線に沿って伸びる街道の終着点に、その町はあった。
かつては海運で栄えたであろう港町の面影は、今やほとんど残っていない。
傾いた桟橋、錆びついた荷揚げクレーン、打ち捨てられた漁船の残骸。町全体が、長い年月をかけてゆっくりと腐敗していくような、重苦しい空気に覆われていた。
何より異様なのは、熱だ。
町に近づくにつれ、空気がじわじわと熱を帯び始め、遠くの海面からは白い蒸気が絶え間なく立ち昇っている。吸い込む息の中に、硫黄と潮の混じった独特の匂いが濃く漂っていた。
「……生きてる人間がいるのが不思議な場所だね」
ステラが額の汗を拭いながら呟く。
「それでも人がいるのは、あの海で商売をしてる連中がいるからだろうな」
ルシアが町の入り口を見渡した。
人影はまばらだが、ゼロではない。波止場の隅でくたびれた網を繕う老漁師、酒場の軒先で涼む男たち、そして——。
「……王国の兵士だ」
テオが声を潜めた。
町の中央広場に、王国の紋章を纏った兵士が数人、明らかに見張りの態勢で立っている。
「アマルを目立たない場所に隠せるか」
ルシアがテオに問うと、テオは頷き、アマルに指示を出した。
町の外れの廃倉庫の陰に、フェンリルがするりと身を滑り込ませ、スライム形態へと縮小する。
「フォニア、その格好は目立ちすぎる。テオのコートの中に入ってろ」
「……我輩に人間のコートの中に入れと? 屈辱じゃな」
「頼む」
「……仕方ない。感謝するのじゃぞ」
フォニアがぶつぶつ言いながらテオのコートの内側に潜り込んだ。
「マイヤとステラは俺と一緒に来い。テオは表の酒場で情報を集めてくれ」
「了解。任せて」
一行は二手に分かれ、廃れた港町の中へと溶け込んでいった。
波止場の端。
錆びた桟橋に腰を下ろし、黙々と釣り糸を垂れている老漁師がいた。
日に焼けた皮膚に深い皺、白く濁った左目。この町で長く生きてきたことが一目で分かる風貌だ。
「おじいさん、ちょっといいですか」
ステラが笑顔で声をかけると、老漁師はゆっくりと振り返った。
「……旅の人か。こんな場所に何の用だ」
「あの海のことを教えてもらいたくて」
ルシアが沸騰海域の方角を顎でしゃくる。
老漁師の表情が、一瞬だけ固まった。
「……あの海か」
老漁師は釣り糸を手繰り寄せ、ため息をついた。
「やめておけ。あそこは死の海だ。近づいた船は帰ってこない。海面は沸騰し、蒸気で視界は効かず、深海からは時折、正体不明の黒い影が浮かび上がってくる」
「黒い影?」
ルシアが身を乗り出す。
「ああ。最近になって増えた。燃えない黒い鉄で覆われた巨大な船だ。王国の紋章を掲げてるが、積んでるのは物資じゃない」
老漁師は声をさらに潜めた。
「……人だ。貨物船にすし詰めにされた、生きた人間が」
その言葉に、ルシアの目が鋭く細くなった。
「どこへ向かってる」
「海の真ん中。蒸気が一番濃い場所だ。あそこだけ、海面の色が違う。黒く、淀んでいる。……古い漁師の言い伝えじゃ、あの真下に、**星の腸**が繋がっておると言われている」
「神炎の炉か」
ルシアが静かに呟く。老漁師が驚いたように目を見開いた。
「……知っているのか。若いのに」
「少しだけ。潜るための道はあるか」
老漁師はしばらく沈黙し、それから懐から古びた羊皮紙を取り出した。
「これは、儂が若い頃に命がけで調べた、あの海の海流図だ。蒸気が薄い場所、水圧が比較的低いルート、黒い船が通らない死角。……全部書いてある」
「なぜ渡してくれる」
ルシアが問うと、老漁師は濁った左目でルシアをじっと見つめた。
「儂の息子が、あの船に乗せられて消えた。三ヶ月前のことだ。……お前さんたちは、あそこに乗り込むつもりだろう。違うか」
ルシアは答えなかった。だがその沈黙が、答えだった。
老漁師は羊皮紙をルシアの手に押し込んだ。
「頼む。息子が生きているかどうかだけでも……確かめてきてくれ」
ルシアは羊皮紙を受け取り、深く頷いた。
「必ず」
その夜。
廃倉庫の陰で、一行は老漁師の海流図を広げた。テオが酒場で集めた情報と照らし合わせると、潜航ルートが浮かび上がってくる。
「ここだ。この死角ルートなら、黒い船に見つかることなく深海まで潜れる」
テオが設計図に書き込みながら言う。
「アマルの潜航形態で、どれくらい保つ?」
ルシアが問うと、テオは指を折って計算した。
「蒼海銀の装甲と、アマルのクッション機構が完全に噛み合えば……最深部まで往復できるはずだ。ただし、余裕はない」
「分かった。夜明け前に出る」
全員が頷く。
マイヤが焚き火の前で無言のまま包丁を研いでいた。刃の奥に宿る幻の霊火が、闇の中でチリッと青白く瞬く。
ステラは白金色の杖を握りしめ、静かに目を閉じていた。
フォニアはコートから這い出て、南東の夜空を見上げながら呟いた。
「……妹の気配が、濃くなっておる。間違いなく、あの海の底におるな」
夜の波止場に、沸騰海域から運ばれてくる熱い潮風が、静かに吹き抜けた。
夜明けまで、あと数時間。
決戦の時が、迫っていた。




