第86話 白金貨五十枚の約束
テオが地下工房への準備を整える前、ルシアは食堂でぼんやりとスープを飲むテオの隣にそっと腰を下ろし、声を潜めた。
「テオ。ちょっと付き合え」
「え? 今から? 僕、早く工房に……」
「十分で済む。来い」
有無を言わせぬルシアの口調に、テオは設計図を置いて立ち上がった。
二人が向かったのは、ギルドから大通りを二本ほど歩いた先にある、あの武具屋だった。
「……ルシアくん、もしかして」
テオが暖簾を前に足を止める。
ギルドに仮入所したての頃、まだ三人が何もかも手探りだったあの時期に、装備を揃えに来た武具屋だ。ステラが素朴な樫の杖を選んだ、あの日の。
「入れ」
暖簾をくぐったルシアは、迷わず店の奥へと向かった。
頑丈なガラスケースの中。白金色に輝く、一本の杖。
純白の滑らかな木材に、先端には六色の光を微かに放つ透明度の高い宝玉が埋め込まれている。
『白金貨五十枚 全属性対応宝玉石・世界樹端材の魔杖 一点物』
「……まだあったんだ」
テオが、小さく息を呑んだ。
「ステラちゃんが素朴な樫の杖を選んだあの日、本当はずっとこれを見てたんだよね。『今の私が使ったら宝玉ごと爆発させちゃいそうだから』って笑ってたけど……あの顔、忘れられなくて」
「俺とお前の目が合ったのを覚えてるか。あの時、同じことを考えてたんだろ」
「うん。いつかステラちゃんが本当にこの杖を使いこなせる魔法使いになった時に、渡せたらいいなって」
テオはガラスケースをじっと見つめ、それからルシアを振り返った。
「……今だね」
「ああ。今だ」
二人は顔を見合わせ、どちらからともなく小さく頷いた。
カウンターの店主に声をかけると、二人はメリルから受け取った報酬の財布をそれぞれ取り出し、白金貨を半分ずつ卓上に並べた。王国が撒いた手配書が、まさかこんな形で役に立つとは思わなかったと、二人は無言のまま同時に同じことを考えた。
店主が丁寧に布で包んだ杖を受け取り、二人は顔を見合わせてうなずき合って武具屋を後にした。
食堂に戻ると、ステラはマイヤとフォニアと三人でテーブルを囲み、夕食の途中だった。
「あ、二人ともどこ行ってたの? スープ冷めちゃうよ」
「ちょっとな」
ルシアがぶっきらぼうに席につきかけた時、テオが「あ、そうだ!」とわざとらしく手を打った。
「ステラちゃん、実はちょっと渡したいものがあって」
テオが布包みをテーブルに置くと、ステラが首を傾げた。
「なに、これ?」
「開けてみて。僕とルシアくんから」
ステラはゆっくりと布を解いた。
その瞬間、食堂の夕灯りの中で、白金色の輝きがふわりと広がった。
純白の滑らかな木材。先端で六色の光を微かに放つ、透明度の高い宝玉。
「……っ」
ステラの手が止まった。
「これ……あの武具屋の、ガラスケースの中にあった……」
「ステラちゃん、昔あの店でこれをじっと見てたよね。『今の私が使ったら宝玉ごと爆発させちゃいそう』って笑ってたけど、僕はずっと覚えてたんだ」
テオが少し照れくさそうに続ける。
「ルシアくんも同じことを考えてたって。だから二人で買いに行ってきた」
ステラはしばらく、杖を胸に抱きしめたまま何も言えなかった。
あの日のことを、二人とも覚えていてくれた。
値段を見て「だよねー」と笑って、ガラスケースから離れたあの瞬間を。素朴な樫の杖を選んで、嬉そうに握りしめたあの瞬間を。
ルシアもテオも、ずっとちゃんと見ていてくれた。
「……ステラ、今の樫の杖にひびが入り始めてるのは分かってるだろ」
ルシアがスープを飲みながら、こちらを見ずに言った。
「星霊魔法を扱う今のお前には、あの杖じゃそろそろ限界だ。深海に持っていく前に、ちゃんとした相棒を持っておけ」
「……うん」
ステラの声が小さく震えた。
「ルシアくん、テオくん……ありがとう。本当に、ありがとう」
ぐいっと目元を拭い、ステラは改めて白金色の杖を握り直した。
触れた指先から伝わってくるのは、他の何とも違う、生きているような温かさと清涼さだ。杖の先端の宝玉が、新しい主を認めたように六色の光をほんのりと瞬かせる。
かつてガラスケース越しに眺めていた憧れが、今、自分の手の中にある。
「なんじゃ、感動の場面か。我輩の骨付き肉が冷めてしまうではないか」
フォニアが不服そうに口を尖らせた。
「いい話じゃないか、チビっ子魔王。……ステラ、その杖、料理で言えば最高の包丁ってやつだ。大事に使いな」
マイヤが珍しく穏やかな顔で頷く。
「うん。絶対に大事にする」
ステラが笑うと、杖の宝玉がもう一度、きらりと六色の光を放った。
翌朝、テオが地下工房に籠もり、甲高い打撃音がランカの地下に響き始めた頃。
ステラは新しい杖で初めて魔力を通した。
樫の杖では感じたことのない、莫大な星霊魔法を余裕で受け止める揺るぎない感触。あの日「今の私には無理だ」と笑って離れた杖が、今の自分の手にこれ以上ないほど自然に馴染んでいる。
あの日、ガラスケースの前で諦めた自分に、今なら胸を張って言える。
強くなったよ、と。
深海への決戦が近づく中、ステラの胸の奥に、静かで力強い炎が灯っていた。




