第83話 沸騰海域(アビス・ヴェイン)の黒い噂
冒険者ギルド『ランカ』の喧騒を背に、重厚な隠し扉を抜けた先。
そこはかつて彼らが訪れた時と変わらず、書類の山に埋もれた執務室だった。
部屋の奥にある、立派すぎる革張りの椅子。
そこにどっかと腰を下ろしたギルドマスターのメリルは、引き出しから瓶を取り出すと、口の周りにクッキーの食べかすをつけながら、深々と疲れたようなため息をついた。
「……まったく。死んだと思ってた厄介な家出少年たちが、とんでもない化け物になって帰ってくるんだから。私の寿命が縮んだよ」
先ほどのホールでの緊張から少し解放されたのか、足をぶらぶらさせてクッキーをかじるその姿は、どう見ても十歳前後にしか見えない金髪の幼い少女だった。
「へぇ、表じゃ随分と威勢よく凄んでたが、裏に引っ込むとずいぶんと可愛らしいじゃないか。クッキー好きのおチビちゃん」
巨大包丁を背負ったマイヤが、来客用のソファにドカッと腰を下ろし、面白そうにニヤニヤと笑う。
「……あたしがギルドマスターだ。外でも言ったが、見た目で判断するなら、その生意気な口を縫い合わせるぞ、デカ包丁」
メリルが不機嫌そうに眉をひそめ、椅子からドンッと飛び降りた。
その瞬間、部屋の空気が凍りついた。
刹那、十歳前後にしか見えない少女の小さな体から、おぞましいほどの濃密な殺気と魔力が膨れ上がり、部屋全体を押し潰すような重圧に変わった。
かつて死線を潜り抜けてきた本物の強者だけが放つ、血の匂いがするオーラ。
以前、この部屋を初めて訪れた時、ステラとテオはこの威圧感に息を呑んで後ずさった。
だが――今の彼らは、微塵も動じなかった。
「ハッ! 何度浴びても、見た目にそぐわないとんでもない殺気だ。気に入ったよ、婆さん」
マイヤは重圧を真正面から浴びながらも、黄金の瞳を肉食獣のように細めて不敵に笑い返す。
ルシアも、ステラも、テオも、涼しい顔でその場に立っていた。世界樹の迷宮で幾度も死線を越え、理外の力を手に入れた今の彼らにとって、メリルの覇気はもはや「懐かしい挨拶」に等しかった。
(……驚いたね。王都から逃げてきた時は、私の殺気だけで今にも潰れそうな脆いガキどもだったってのに)
メリルは内心の驚愕を隠し、スッと魔力を引っ込めて再び椅子によじ登った。
「適当に座りな。……さっそく本題に入ろうか」
メリルが真剣なトーンに切り替わり、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出して広げた。
ルシアの頭から離れたフォニアも、部屋の隅にある本棚の上に陣取り、耳を傾ける。
「その小悪魔が察知した異常な魔族の気配……おそらく間違いじゃない。あんたたちが迷宮に潜っていた数ヶ月の間、王国の連中も、魔族の連中も、キナ臭い動きを見せている」
羊皮紙に描かれていたのは、大陸の南東部を中心とした広域マップだった。
「まず、王国の動向だ。ルシア、あんたの兄貴が王都で悪魔と化して暴走した事件。あれは完全に王族の上層部によって揉み消された。公式記録では、あんたの兄貴は『名誉の戦死』、そしてあんたたちパーティーは『逃亡中の反逆者』として処理されている」
「……揉み消した、だと?」
ルシアの表情から一切の感情が消え、純白の剣の柄を握る手にギリッと力が入る。
「ああ。それだけじゃない。最近、王国の正規軍や大量の物資が、次々と南東の港町を経由して『海』へと送り出されている」
メリルはマップの南東、赤く塗りつぶされた海域をトンッと指で叩いた。
「『沸騰海域』。千年前の地殻変動で沈んだ、常に熱湯が煮えたぎる死の海。……噂じゃ、最近その蒸気の中に、燃えない黒い鉄で覆われた巨大な船が出入りしてるらしい。王国の上層部は、裏で魔族と結託して、あの海の底で何か『とんでもない兵器』でも作ろうとしてるんじゃないかってね」
「王国の連中も一枚噛んでるってわけか。……上等だ。兄貴を使い捨てた魔族もろとも、腐った連中を全員海の底に沈めてやる」
「海の底……超高圧の海底火山、『神炎の炉』だね! まさにアタシの新しい包丁を打つための、特等席のキッチンじゃないか!」
ルシアの冷たい怒りに呼応するように、マイヤが身を乗り出す。
「でも、どうやってその海底に潜るつもりだい? 沸騰する水温と深海の水圧じゃ、魔法の結界が尽きた瞬間に全員茹でダコだ。人間の行ける場所じゃない」
メリルのもっともな指摘に対し、魔力を一切持たないテオがドンッと胸を叩いた。
「僕に任せてよ、メリルさん! エルフの長老さんから、熱と水圧を完全に逃がす古代の霊金属『蒼海銀』をもらったんだ。これと僕の純鉄ギア、それに……」
「……長老、か」
テオの言葉を遮るように、メリルがポツリと呟いた。
その幼い顔から歴戦のギルドマスターとしての険しさが消え、代わりに、長い年月を生きるエルフとしての深い郷愁がふわりと浮かび上がる。
「あのカタブツの爺さん、まだ生きてたんだねぇ……。蒼海銀なんて一族の秘宝を人間にホイホイ渡すなんて、昔じゃ考えられないよ」
メリルは窓の外の遠い空――南の森の方角へと目をやり、小さく、だが本当に嬉しそうに微笑んだ。
「そうか。あんたたち、本当に……私たちの故郷(森)を、あの千年の呪いから救ってくれたんだね。……ありがとう」
その静かな感謝の言葉に、ルシアとステラは顔を見合わせ、柔らかく頷き返した。かつてメリルがルシアたちに南のエルフの里を提示したのは、単なる修行場としてだけではなく、故郷を救ってほしいという祈りも込められていたのかもしれない。
「で、その爺さんの土産とあんたのからくりを組み合わせれば、深海でも潰れない船が作れるってわけかい」
数秒の静寂の後、メリルはすぐにいつもの不敵な表情に戻り、テオへと視線を戻した。
「はい! アマルの軟性クッション機構を組み合わせれば、深海の極限環境でも絶対に潰れない、純粋な物理力学だけで動く『深海用潜水カプセル』を作れます!」
科学とからくりへの絶対的な自信。その曇りのない笑顔を見て、メリルは呆れたように額を押さえた。
「……あんた、本当に頭のネジが数本吹き飛んでるね。魔力ゼロのからくりだけで、深海の悪魔の巣窟にカチ込もうっていうのかい」
「テオの機巧は最強だ。北のドワーフの里でも、あのバルゴの技術を完全に自分のものにしてたからな」
ルシアが誇らしげに笑うと、メリルは「やれやれ」と肩をすくめた。
「……分かったよ。あんたたちが本気だってことは痛いほど伝わった。蒼海銀の加工には、魔力を使わない特殊な設備が必要だろう。このギルドの地下にある、大昔のドワーフが残した『大地下工房』を貸してやる。好きなだけ使いな」
「本当!? ありがとうメリルさん!」
メリルは机の引き出しから、ずっしりと重い革袋を取り出してルシアへと放り投げた。
「……受け取りな。あんたたちへの報酬だ」
「報酬? 誰からだ」
「あんたたちが王都で暴れて以来、王国はあんたたちを『反逆者』として手配書を撒き続けてる。だからアタシは逆手に取った。ギルドのネットワークを使って、王国の支配が届かない自治都市や辺境の街々に向けて、あんたたちの別の顔を売り込んだんだよ」
メリルはニヤリと不敵に笑った。
「『腐敗した王都に反旗を翻し、辺境を守り、ついには千年の呪いから世界樹の森を解放した英雄たち』ってね。各地の自治都市や商会から、義援金と依頼料がどっさり集まったよ。……王国が撒いた手配書が、まさかこんなに役立つとは思わなかったけどね」
「……あんた、本当にやることが汚いな」
「褒め言葉として受け取っとくよ」
メリルがキャンディをギリッと噛み砕き、涼しい顔で肩をすくめた。
さらにメリルは、机の奥から厳重に封印された古い筒を取り出し、ルシアへ向けて放り投げた。
「かつて、沸騰海域の周辺を調査した命知らずの冒険者が残した『海流図』の写しだ。どこにヤバい変異海獣の巣があるか、どこなら水圧の負荷が少ないか、びっしり書き込まれてる。少しはマシな道しるべになるだろうさ」
ルシアは筒を受け取り、その重みを確かめるように握りしめた。
「恩に着る、メリル。……また世話になっちまったな」
「ふん。どうせまた、とんでもないトラブルを抱えて帰ってくるんだろうさ」
メリルが子供の容姿に似合わない豪快な笑みを浮かべた後、ふと声音を柔らかくした。
「……でもまぁ、息の詰まるような迷宮で、随分と無理をしてきたんだろう。まずはこの街で、ゆっくり骨休めでもしな。準備はそれからで十分だ。焦らなくても、海は逃げやしないよ」
その温かい言葉に、張り詰めていたルシアたちの肩からフッと力が抜ける。
絶対死地からの生還。その偉業を成し遂げた彼らにも、束の間の休息は必要だった。
賑やかなランカの街に溶け込み、マイヤは市場で新鮮な食材を吟味し、ステラとフォニアは久しぶりの柔らかいベッドを満喫するだろう。
そしてテオは、ギルドの地下工房に籠もり、未知なる深海へ挑むための『方舟』の設計に没頭する。
王国の陰謀と魔族の影が渦巻く、南東の極限環境へ向けて。
次なる激闘への静かで熱い準備期間が、ここ辺境都市ランカで穏やかに幕を開けた。




