第82話 陽光の街道
エルフの辺境村『エルトラ』を出発してから数日。
ルシアたちは、南東の海へと続く街道を、のんびりとした足取りで進んでいた。
普段の長旅であれば、テオがアマルを**【重装甲の機巧獣】**に変形させて全員で乗り込むところだが、今回ばかりは違った。何しろ、文字通り息も詰まるような死の迷宮の底で、長期間にわたる極限のサバイバルを強いられていたのだ。頭上に青空が広がり、頬を撫でる風が清浄であるというただそれだけの事実が、今の彼らにとっては極上の贅沢だった。
「いやぁ、たまには自分の足で歩くのも悪くないね! 太陽の光ってこんなに暖かかったんだなぁ」
テオが両腕をぐーっと背伸びさせながら笑う。その横では、元の手のひらサイズに戻ったスライムのアマルが、ぽよんぽよんと機嫌よく跳ねながら着いてきている。
「まったく、人間の体力というやつは理解できん。こんなに歩いて何が楽しいのじゃ。我輩はもう飛ぶのすら面倒くさいぞ……」
フォニアが文句を垂れながら、ルシアの頭の上にふわりと着地し、そのまま帽子のように丸まってしまった。
「重てぇよチビっ子魔王。まぁ、気持ちは分かるがな」
ルシアは苦笑しながらも、フォニアをどかすことはせず、心地よい疲労感を足の裏に感じながら歩き続けた。彼の腰で揺れる純白の剣は、陽光を反射して美しく輝いている。剣の重さすら、今は魔力の『循環』のおかげで羽のように軽く感じられた。
「テオくん。さっきから前を見ないで歩いてるけど、転ぶよ?」
ステラが、手元の羊皮紙を食い入るように見つめているテオを心配そうに覗き込んだ。
「あ、ごめんごめん! エルフの長老さんからもらった『蒼海銀』の加工手順を計算してたんだ。この金属、熱と水圧を逃がす性質は完璧なんだけど、純鉄ギアと噛み合わせるための融点がとんでもなく特殊でさ。……でも大丈夫、アマルの変形機構のコアと連動させれば、絶対に潰れない潜水艇の設計図はもう頭ん中にできてるよ!」
テオは羊皮紙に素早く数式を書き込みながら、機巧技師としての天才的な閃きに目をキラキラとさせていた。
「へぇ、頼もしいねぇ。アタシの圧力鍋作りは、あんたの潜水艇の出来にかかってるんだ。せいぜい頑丈に作ってくれよ」
最後尾を歩くマイヤが、巨大包丁を杖代わりにして笑う。彼女の肩には、道中で「食材」として狩った、牛よりも巨大な『暴走猪』が軽々と担がれていた。普通の人間なら数人がかりで運ぶような獲物だが、マイヤの異常な腕力の前では手荷物と同義だ。
日が傾き、空が茜色に染まり始めた頃。一行は街道沿いの開けた森で、野営キャンプの準備を始めることにした。
「よし、今日はこの辺にしよう。俺が薪を集めて――」
ルシアが言いかけた、その時だった。
「あ、私がやるね」
ステラが、杖すら抜かずに指先をパチンと弾いた。
ゴゴゴゴッ……!
瞬く間に大地が蠢き、野営地を囲むようにして、頑丈で滑らかな「石の防風壁」が隆起する。さらに地面の凹凸が平らに均され、即席の石のテーブルとベンチまでが、まるで最初からそこにあったかのように形成された。それだけではない。ステラがふっと息を吹きかけると、森の中から枯れ枝だけが竜巻のように集まり、石のテーブルの中央に美しく組み上がったのだ。
「……あとは、火だね」
ステラが指先で宙に小さな三角形を描くと、ふわりと温かな赤い炎が薪に灯り、心地よい焚き火が完成した。土の操作、風による収集、そして炎の着火。全属性を内包する莫大な魔力を、彼女はミリ単位の狂いもなく、息をするように自然に制御していた。
「……お、おう。サンキュー、ステラ」
ルシアが薪を拾おうとしていた手を宙で泳がせながら、呆気にとられて呟いた。
「ひゃははっ! こりゃあ便利だ! ステラがいりゃ、どこでも最高級の宿屋に早変わりだな!」
マイヤが豪快に笑いながら、石のテーブルにドスンと暴走猪の肉塊を叩きつけた。
「さぁて、アタシも腕を振るうとするかね。極限状態のダンジョン飯も悪かぁないが、やっぱり新鮮な空の下で作るメシが一番だ!」
マイヤは愛用の巨大包丁を抜き放ち、目にも止まらぬ速さで猪を解体していく。極限まで研ぎ澄まされた彼女の包丁捌きは、もはや芸術の域だった。分厚い肉が次々と美しいブロックに切り分けられ、持参していた香草と岩塩がすり込まれる。
「ステラ、火力を少しだけ上げて! 表面を一気に焼き固める!」
「了解!」
ステラが指をクイッと上げると、焚き火の炎が青白く変色し、瞬時に超高温のバーナーのように肉を炙り始めた。ジューッ!!という食欲をそそる爆音と共に、香ばしい匂いが森中に広がる。
「よし、あとはアタシの霊火でじっくり中まで火を通す!」
マイヤの包丁から放たれた『幻の霊火』が肉を優しく包み込み、旨味を内側に完璧に閉じ込めた。
数分後。星空の下、五人と一匹は、肉汁が溢れ出す極上のローストポークを頬張りながら、最高に贅沢な夕食の時間を楽しんでいた。
「んまーーーっ!! なにこれ、お肉が口の中で溶けるよ!?」
テオが目を丸くして肉を頬張る。
「うむ、悪くない。マイヤの料理は相変わらず魔族の晩餐より美味いな」
フォニアも小さな口の周りを油だらけにしてご満悦だ。
食後、皆が焚き火を囲んで談笑する中、ルシアだけが少し離れた場所で、静かに純白の剣を振っていた。
シュッ……! シュォォォッ……!
力任せの素振りではない。足の先から大地のマナを吸い上げ、心臓を通し、腕から剣先へと流す。ステラの癒しによって完全に回復した肉体は、以前よりも遥かに滑らかに魔力を『循環』させていた。振るたびに、剣の軌跡に淡い光の帯が残る。
(……王都の時は、兄貴の変わり果てた姿に頭が真っ白になって、ただ力任せに剣を振り回すことしかできなかった)
ルシアは剣をピタリと止め、南東の夜空を見上げた。
(でも、今は違う。どんな理不尽な悪魔の力が相手でも……俺はこの剣で、確実に元凶のドタマを叩き斬る)
彼の瞳には、静かで、しかし決して消えることのない復讐の炎と、仲間を守り抜くという強靭な意志が宿っていた。
「ルシアくん、無理しないでね」
いつの間にか近づいてきたステラが、温かいハーブティーの入ったカップを差し出した。
「ああ、ありがとう。……お前も、自分の力にもう振り回されてないみたいだな」
ルシアがカップを受け取ると、ステラは嬉しそうに微笑んで頷いた。
「うん。力が大きすぎても、それを包み込む器があれば怖くないって分かったから。……それに、海の中で魔族と戦うなら、私の火力が絶対に必要になるでしょ?」
「頼りにしてるぜ、最強の魔法使い」
ルシアの言葉に、ステラは照れくさそうに笑いながらも、力強く頷き返した。
そして、翌日の昼下がり。南東の『沸騰海域』を目指す彼らの視界に、堅牢な城壁に囲まれた見慣れた街並みが姿を現した。
「見えてきたよ! 『辺境都市ランカ』だ!」
テオが丘の上から身を乗り出して叫んだ。
彼らの眼下に広がるその街は、かつて王都で敗北し、国から追われる身となって絶望の淵にいたルシア、ステラ、テオの3人を匿ってくれた、忘れられない場所だった。
「へぇ、ここがあんたたちの言ってたランカかい。メリルっていう世話焼きのギルドマスターがいるのはどこだ?」
巨大包丁を肩に担いだマイヤが、初めて見る街並みに黄金の瞳を輝かせる。彼女が仲間に加わったのはこの後の旅路であるため、彼女にとってはここが初めての訪問だ。
「ああ。……あの時は、街の連中を巻き込まないようにって、俺とステラとテオの3人で、夜明け前にコソコソ逃げるようにして旅立ったがな」
ルシアはマイヤに苦笑いを向けつつ、懐かしい街の輪郭を見つめて感慨に浸った。
北のドワーフの秘境、南のエルフの世界樹。メリルに示された二つの道標を巡り、随分と遠回りしたが、あの時ボロボロだった3人は、今、規格外の強さを手に入れ、さらにマイヤとフォニアという心強い仲間を加えて、白昼堂々と正面の正門から帰ってきたのだ。
門番たちが「お、お前らまさか……あの時の3人か!?」と驚愕の声を上げるのを笑って躱しながら、一行は賑やかな大通りを抜け、街の中心にある『冒険者ギルド』へと向かった。
長年の汚れが染み付いた、見慣れた重厚な木の扉。ルシアがそれを、勢いよく押し開ける。
ギイィィィィッ……!
喧騒に包まれていたギルド内の視線が、一斉に入り口へと注がれた。歴戦の冒険者たちが集う昼下がりの熱気が充満していたが、ルシアたちの顔を見た瞬間、まるで魔法をかけられたように酒場全体の時が止まった。
奥のカウンターで書類に目を通していたギルドマスターのメリルが、顔を上げた。彼女の目が大きく見開かれ、手からポロリと羽ペンが滑り落ちる。
「……ル、ルシア……? テオ……それに、ステラまで……?」
メリルが、信じられないものを見るような声で呟いた。彼女が助言した『南のエルフの世界樹』は、千年もの間、誰一人として生還したことのない絶対の死地だったのだから。
「よう、メリル。生きて帰ってきたぜ」
ルシアがニッと笑い、純白の剣の柄をポンと叩いた。
メリルの視線は、死の淵から舞い戻った3人の、以前とは比較にならないほど強大で澄み切った魔力に驚愕し、そして――その横で巨大包丁を肩に担ぎ、ギラギラとした覇気を隠そうともしない見知らぬ料理人マイヤへと向けられた。
「……アンタ、誰だい? 家出少年の護衛にしては、随分とヤバい匂いがする料理人だねぇ」
メリルが、鋭く警戒に満ちた瞳でマイヤを睨む。
「ハッ! 気が合うねぇ、嬢ちゃん。アタシはマイヤ。こいつらの胃袋と背中を守ってる料理人さ」
マイヤが不敵に笑い、巨大包丁をドンッ!と床に突く。
「嬢ちゃん……だと?」
メリルの目が、スッと細くなった。
「アンタ、それが何百年生きてる相手に言う言葉かい。あんまり舐めた口を利くと、一晩中ギルドの床磨きをさせるよ」
メリルがキャンディをギリッと噛み砕き、静かな、しかし凍りつくような圧力を放つ。
マイヤは一瞬だけ沈黙し、その古びた眼光の奥に刻まれた底知れない年輪を見て取った。
「……へぇ。見た目に反して、随分と長く生きてるんだね」
マイヤはニヤリと口の端を吊り上げた。
「なら訂正しよう。気が合うねぇ、婆さん」
「最初からそう呼びな」
メリルは呆れたようにため息をつきながらも、口の端をわずかに持ち上げた。どうやら、この図太い料理人のことが、少しだけ気に入ったらしい。
だが、メリルの警戒はそれだけで終わらなかった。鋭い目が、ルシアの頭の上で「ふぁぁ……なんじゃ、随分と埃っぽくて騒がしい酒場じゃな」と欠伸をしている、漆黒の羽を持った小さな影を捉えた瞬間、ギルド内の空気が一気に氷点下まで凍りついた。
「……ちょっと待ちな。そのでかい包丁女も大概だけど」
メリルの声が、底冷えのするような低いトーンに変わる。
「ルシア。あんたの頭の上に乗ってるその『魔族』は、一体何の冗談だい? あんた、自分の兄貴を奪った魔族を、誰よりも憎んでたんじゃないのかい」
一触即発。周囲の冒険者たちも武器に手をかけ始める。だが、ルシアは慌てることなく、頭の上のフォニアをひょいっと摘み上げた。
「離せ無礼者! 我輩は偉大なる……むぐっ!?」
「こいつはフォニア。千年前に封印されてた、ちょっとアホな小悪魔だ」
ルシアは暴れるフォニアの口を塞ぎながら、メリルを真っ直ぐに見つめ返した。
「こいつは『そっち側』じゃない。……むしろ、兄貴をあんな姿に変えた元凶どもを、最短距離でぶっ飛ばすための最高の『道案内レーダー』さ」
ルシアの瞳の奥に宿る、決してブレることのない冷たい復讐の炎。そして、それに付き従うステラやテオたちの、微塵も魔族フォニアを恐れていない堂々たる態度を見て、メリルはしばらく沈黙した後――深々と息を吐き出した。
「……フン。よく生きてた上に、とんでもない連中を連れ帰ってきたもんだよ、全く」
メリルは呆れたように肩をすくめ、ようやく柔らかい笑みを浮かべた。
「全員、奥の部屋へ来な。あんたたちが消えた後の王国の動向と……南東の『海』で起きてる胸糞悪い噂についても、教えてやるからさ」
絶対死地からの、奇跡の帰還。その報告と共に、ランカのギルドは、驚愕と、そして新たな冒険への予感に、かつてないほど熱く沸き上がった。




