第76話 拒絶の迷宮
「ルシア! ステラ! 絶対に死ぬんじゃないぞ!!」
マイヤの悲痛な叫びを嘲笑うかのように、二人が飲み込まれた巨大な縦穴は、無数の根が蛇のように絡み合い、凄まじい速度で完全に塞がってしまった。
「ルシアくん……! ステラ殿……ッ!」
テオが顔面を蒼白にし、塞がった床にすがりついて、ミスリルコーティングされたアマルを叩きつける。
ガキィィンッ! と甲高い金属音が響くが、世界樹の根は傷つくどころか、アマルの打撃を吸収し、さらに分厚く、ドス黒い樹皮へと硬化していった。
「退きな、テオ! アタシがまとめてブチ抜くッ!!」
マイヤが大跳躍し、己の背丈ほどもある巨大包丁を大上段から振り下ろした。
ドガァァァァァンッ!!
空間全体が激しく揺れ、衝撃波で周囲の瘴気が吹き飛ぶ。
だが、マイヤの渾身の唐竹割りをもってしても、千年の呪いを吸い上げて鋼鉄以上の硬度を持った世界樹の「防衛装甲」は、表面を数十センチ抉られただけだった。しかも、抉られた傷口からはタールのような樹液が噴き出し、瞬く間に自己修復していく。
「くそったれが……ッ! 生きた迷宮ってのは本当らしいな。下へ行く道だけを念入りに分厚く塞ぎやがって!」
マイヤがギリッと奥歯を噛み鳴らした。
(アタシの客が、アタシの作った極上メシを消化しきる前に死ぬなんて、絶対に許さない……!)
雪山の極寒でも、境界の大河での死闘でも、ルシアは腕の血管をブチ切るほどの無茶な戦い方で道を切り開こうとし、ステラは自身の非力さに涙しながらも必死に足掻いている。彼らの専属料理人として命の活力を与えると決めた以上、ここで指を咥えて待っているつもりはない。
「絶対に、下へ行く……ッ!!」
マイヤが再び包丁を振り上げようとした、その時だった。
『ピギィィィィッ……!!』
テオの腕の中で、アマルが苦痛に満ちた駆動音を上げた。
「え……? 嘘だろ、精霊銀のコーティングが……溶けてる!?」
テオの悲鳴に、マイヤは周囲の異変に気付いた。
先ほどまで第一階層に充満していた「重い瘴気」が、明確な殺意を持った『強酸性の霧』へと変質し始めていたのだ。エルフの最高級金属であるはずのミスリルすらも、表面からジュウジュウと白い煙を上げて腐食していく。
「迷宮が、完全に俺たちを『排除すべき異物』として認識したんだ……! 防衛機構のレベルがさっきまでと全然違う!」
テオが慌ててアマルの出力を調整し、アマルに命じて自分とマイヤの周囲に極薄の防酸魔力場を展開させる。
ズズズズズ……ッ!!
強酸の霧の奥から、無数の巨大な影が這い出してきた。
先ほどの猟犬のような小手調べではない。世界樹の根と完全に同化し、全身から溶解液を滴らせる巨大な食虫植物の化け物――【酸獄の捕食花】の群れだった。
それが、四方八方からマイヤたちを完全に包囲している。
「……急いだ方がええぞ、料理人」
強酸の霧の中でも、なぜか全く意に介さず宙に浮いているフォニアが、腕を組んで冷ややかに見下ろしてきた。
「この迷宮が『呪いの浄化槽』だと言ったのを忘れおったか? 毒は重い。下層に行けば行くほど、千年前の我輩の妹が放った純度100%の呪いが、ヘドロのように濃く溜まっておるのじゃ」
フォニアは、塞がった床を指差した。
「ルシアの坊主は、持ち前の異常な身体強化と、あの『呪いを吸う白い剣』があるから多少は耐え切れるじゃろう。だが……あのエルフの魔法を使おうとしておった小娘は、致命的じゃ」
「ステラが……致命的、だと?」
マイヤが包丁を構えたまま睨みつける。
「いかにも。魔法使いというのは、息をするように大気中のマナ(星の生命力)を自身の魔力回路に取り込んで魔法を練り上げる。だが、下層の大気はマナではなく『濃縮された毒』じゃ。呼吸をするだけで、毒を直接血管に流し込んでいるのと同じこと。……あの小娘が下層の極悪な瘴気の中で焦って魔法を使おうとすれば、魔力回路が内側から腐り落ちて、風船のように弾け飛ぶぞ」
フォニアの言葉は、ただの脅しではない。魔族の最高幹部としての、残酷なまでの絶対的真理だった。
「……ッ!!」
テオの顔から血の気が引く。
マイヤの黄金の瞳に、ゴウッ! と明確な「怒り」の炎が灯った。
「……ふざけんな。アタシが丹精込めて作ったメシの栄養が、あんな底なしのゴミ箱で腐り落ちてたまるかッ!!」
ボォォォォォォッ!!
マイヤの怒りに呼応し、巨大包丁の刀身から青白い『幻の霊火』が爆発的に噴き上がった。
それは周囲の強酸の霧を強引に蒸発させ、迫り来る捕食花たちを後ずさりさせるほどの圧倒的な熱量。
「チビっ子魔王!! さっき『この迷宮は浄化槽だ』って言ったな! なら、上から下へ毒を流し込む『排水管』が絶対にあるはずだ!! そこを案内しな!!」
マイヤの剣幕に、フォニアは一瞬目を丸くし、そしてニヤリと悪魔的な笑みを浮かべた。
「ほう、狂ったか。……いいじゃろう。その『排水管』とやらは、間違いなく存在する」
フォニアは小さな手を壁面の巨大な根に向けた。
「この階層の壁の奥深く。世界樹が地表の呪いを最下層へ流し込む、最も太く、最も毒の濃い『呪いの大動脈』が走っておる。あの中をブチ抜いて滑り落ちれば、階層の硬い装甲板を無視して、一気に下まで急降下できるぞ」
フォニアは紅い瞳をスッと細めた。
「だが、あの中は文字通りの『致死量の毒の濁流』じゃ。お主らの肉体ごと、一瞬でドロドロに溶けるぞ?」
「テオ!! アマルは保つか!?」
マイヤはフォニアの警告を完全に無視し、背後のテオに向かって叫んだ。
「……無茶苦茶だよ!! でも……やるしかない!!」
テオは恐怖で震える両足を踏み締め、アマルを頭上に掲げた。
「バルゴさんの純鉄ギアを限界までオーバードライブさせる! ミスリルコーティングの装甲を『完全密閉型の球体』に変形させて、僕たちを包み込むんだ! 毒の濁流の中でも、数分なら……いや、数分だけなら絶対に保たせてみせる!!」
「上等だ!!」
マイヤは魔獣の群れを強引に蹴り散らし、フォニアの指差した壁面へと一直線に突貫した。
「アタシが道を開く!! テオ、アタシが飛び込んだ瞬間にカプセルを閉じろ!!」
マイヤは幻の霊火を限界まで圧縮し、世界樹の分厚い壁の根に向かって、渾身の突きを深々と突き立てた。
ブシャァァァァァッ!!
壁が破れた瞬間、そこから高圧の水流のように、真っ黒な強酸の「呪いの樹液」が猛烈な勢いで噴き出してきた。
「開けェェェェェッ!!」
マイヤが雄叫びと共に巨大包丁を強引に引き裂くと、大動脈に大人三人が飛び込めるほどの巨大な『縦穴(空洞)』が口を開けた。その奥は、強烈な重力が渦巻く、ドス黒いヘドロの滝となっていた。
「アマル、球体防壁!!」
テオが叫ぶと同時。
マイヤはテオの襟首を掴み、宙に浮くフォニアを小脇に抱え、噴き出す猛毒の濁流のど真ん中――世界樹の大動脈の内部へと、一切の躊躇なく身を投じた。
直後、漆黒のスライムが三人を完全に包み込み、ミスリルコーティングされた巨大な黒い球体となって、濁流の中へと飲み込まれていく。
ルシアとステラを救い出すため。
怒れる料理人と覚悟を決めた少年、そして小さな魔女による、迷宮の法則を完全に無視した、狂気の「大動脈ダイブ」が始まった。




