第75話 千年の痛覚
ガキィィィィィィンッ!!!!
幾重にも圧縮された古代の緑の結界に、純白の剣が三度弾かれた。
「がぁぁッ……!!」
無理な魔力圧縮と剣の反発が右腕を破壊し、俺の口から苦悶の声が漏れる。エルフの小手は限界を超えて赤熱し、皮膚が焼け焦げる嫌な臭いが立ち昇った。
『……外敵は、森の土に還れ……!!』
千年前の呪いに侵された古代エルフの亡霊が、虚ろな瞳で長杖を振り上げる。
周囲の世界樹の根が生き物のように蠢き、俺たちを串刺しにすべく、四方八方から無数の木槍となって迫り来ていた。
「ルシアくんッ!!」
俺を庇うように前に出たステラが、杖を構える。
だが、放った炎は亡霊の結界に触れることすらできず、圧倒的な瘴気に押し潰されて消滅した。
魔法の出力が足りない。魔力の密度が違いすぎる。このままでは、二人とも千年の呪いに飲み込まれて挽肉になるだけだ。
(どうすれば……どうすれば、私の魔法がこのバケモノに届くの!?)
ステラは絶望の中で、必死に思考を回した。
その時、亡霊の掠れた呟きが彼女の耳を打った。
『……燃える。……森が、燃えている……熱い、痛い……』
(……痛い?)
ステラはハッとして、亡霊の姿を凝視した。
ドス黒く変色した肌、根と融合した肉体。こいつはただの防衛機構じゃない。千年前、リフィアの業火から世界樹を守るために、星の呪いと痛みをたった一人で背負い込み、狂ってしまった悲しき英雄の成れの果てだ。
(なら、攻撃魔法(火力)でこの結界を破ろうとするのが、そもそも間違っているんだ……!)
「ルシアくん、剣を構えて! 一瞬だけ、結界を消すから!!」
ステラは杖を放り捨て、亡霊に向かって無防備な両手を広げた。
「おい、ステラ!? 何をする気だ!」
俺が叫ぶが、ステラは振り返らなかった。彼女は目を閉じ、自身の体内にある魔力回路の『門』を、限界まで、それこそ千切れるほどに全開にした。
攻撃でも防御でもない。彼女が選んだのは、魔法使いとして最も危険でタブーとされる行為――外部の異常な魔力と自身の魔力回路を直接繋ぐ【完全同調】だった。
「あなたの痛み……私が、半分もらうッ!!」
ステラが叫んだ瞬間。
ズドォォォォォォンッ!!!
亡霊が展開していた強固な緑の結界と、周囲に渦巻いていた高濃度の瘴気が、まるで決壊したダムのようにステラの華奢な身体へと一気に逆流し始めた。
「ガ、アァァァァァァァッ!!?」
ステラの口から、鮮血が噴き出した。
千年間、地底で圧縮され続けてきた星の呪いと絶望の記憶。それが致死量の毒となってステラの魔力回路を強引にこじ開け、ズタズタに引き裂きながら、本来の何十倍もの太さへと『拡張』していく。
白目の毛細血管が切れ、全身の皮膚から血の汗が吹き出す。
「ステラァァァッ!!」
『……ア……? 痛ミガ……消エル……?』
自身の呪いを強引に肩代わりされた亡霊が、困惑したように長杖を下ろした。
その瞬間、俺たちの命を阻んでいた「古代の結界」が、完全に消滅した。
(ステラが……俺のために、命を削って道を作った……!!)
俺の心臓が、早鐘のように打ち鳴らされる。
恐怖、焦り、絶望。それらすべてが、ステラの凄惨な自己犠牲を前にして、極限の『氷のような冷静さ』へと塗り替えられていった。
(ここで俺が外せば、ステラが死ぬ。……力任せの圧縮なんて、してる場合じゃない)
俺は右腕の魔力を、完全にゼロにした。
ズンッ……! と、純白の剣の恐ろしい重力が、外れかかった右肩にのしかかる。
だが、俺はその重さに逆らわなかった。剣が落ちようとする軌道、その引力に身を委ねる。
丹田から引き出した魔力を右腕に「留める(圧縮する)」のではなく、肩から腕、そして刃の切っ先へと、川の水が海へ流れ込むように滑らかに『循環』させる。
「……シッ」
ヒュンッ。
それは、一切の力みがない、静かで美しい一閃だった。
剣の重さと、循環する魔力の遠心力。
そして、純白の剣自身が持つ「概念を断ち割る」という絶対的な性質。それらが完璧に噛み合った時、俺の振るった刃は、亡霊の肉体を物理的に斬り裂くのではなく、その存在を縛り付けていた『千年の呪いという概念』そのものを、音もなく両断していた。
パァァァァァァァンッ!!!!!
一瞬の静寂。
直後、古代エルフの亡霊の身体を覆っていたドス黒いタールが、光の粒子となってポロポロと崩れ落ちていく。
木槍となって襲いかかろうとしていた世界樹の根も、呪いを断たれたことでただの枯れ木へと戻り、バラバラと崩れ去った。
『……アア。……熱ガ、引イテイク……。美シイ、森ノ風……』
泥が剥がれ落ち、本来の美しい銀髪と白磁の肌を取り戻した古代エルフの英雄は、俺とステラに向かって穏やかに微笑み――そのまま、光の塵となって奈落の闇へと溶けて消えた。
「……ハァッ……ハァッ……」
俺は純白の剣を鞘に収め、その場に崩れ落ちた。
右腕への反動は、信じられないほどに『無かった』。俺はついに、この過酷な死闘の中で、力任せの悪癖を抜け出し、純白の剣の「真の振るい方」を身体に刻み込むことに成功したのだ。
だが、喜んでいる暇はない。
「ステラッ!!」
俺は慌てて駆け寄り、血溜まりの中に倒れ伏しているステラを抱き起こした。
「ゲホッ……ガハッ……!」
ステラの息は弱く、その白い肌には黒い葉脈のような呪いの痣が不気味に浮かび上がっていた。
同調によって結界を中和した代償。彼女の魔力回路は、千年の呪いを引き受けたことで強引に巨大化(拡張)したものの、内部は完全に焼け焦げ、自力で治癒魔法をかけることすら不可能な状態だった。
「ルシア、くん……。結界……消せた、よ……」
ステラが、焦点の合わない瞳で、血まみれの顔に弱々しい笑みを浮かべた。
「ああ! お前のおかげで倒せた! 喋るな、すぐにポーションを……くそっ、瘴気が濃すぎて薬がすぐに変色しやがる!」
俺が焦ってアイテムを探る手を、ステラの冷たい指先がそっと握った。
「だめ……普通の薬じゃ、治らない……。私の魔力回路、星の毒で……もう、ボロボロ……」
ステラの命の灯火が、今にも消えようとしている。
その時、俺たちの足元の巨大な根が地鳴りを立ててゆっくりと開き、さらに奥底へと続く「光の漏れる螺旋階段」が姿を現した。
上層の瘴気とは違う。そこから溢れ出しているのは、気が狂うほどに清浄で、圧倒的な濃度の『星の生命力』だった。
「……最下層」
俺は血に染まったステラを背中にしっかりと背負い直し、立ち上がった。
「死なせるかよ。この下には、ステラの魔力回路を浄化する祭壇と、どんな呪いも治す『世界樹の朝露』があるはずだ。……絶対にお前を助ける。俺に掴まってろ!」
「うん……ルシア、くんの……背中、あったかい……」
ステラが俺の肩に顔を埋め、静かに意識を手放した。
完全に退路は断たれ、頼れる仲間もいない。
だが、俺は己の剣術の進化と、背中で消えかかっている小さな命の重みを噛み締めながら、迷宮の最深部――『世界樹の朝露』が眠る神聖なる祭壇へと向かって、血まみれの足を踏み出した。




