第70話 千年の過ち
霊山の頂から吹き下ろした絶望の暴風が去り、エルフの辺境村『エルトラ』の広場には、異様なまでの静寂が落ちていた。
へし折れた防壁の丸太、ひび割れた石畳、そして魔力酔いで膝をつく精鋭のエルフたち。
その凄惨な破壊の爪痕の中央で、諸悪の根源であるはずの「災禍の魔女」フォニアは、あどけない少女の姿のまま、小さく「ぐぅぅ……」と腹の虫を鳴らしていた。
「……腹が減ってはなんとやら、じゃ。おい人間、お主ら我輩の封印を解いてくれた恩人じゃろ? 早く美味い飯を出すのじゃ。千年も寝ておったら、胃袋が背中とくっつきそうじゃぞ」
フォニアは背中の小さな漆黒の翼をパタパタと揺らしながら、俺の純白の剣を指差して急かしてくる。
張り詰めていた緊張の糸が、あまりの拍子抜けな態度にプツリと切れる音がした。
俺は全身の筋肉に圧縮していた魔力を完全に解き、限界を迎えていた両腕の痛みに顔をしかめながら、純白の剣をカチャリと鞘に収めた。
「……マイヤ。作れるか?」
「ハッ、千年前の魔族だろうが何だろうが、私の客になるってんなら極上のメシを食わせてやるよ。エルフの連中が厨房を貸してくれれば、の話だがな」
マイヤが包丁を肩に担ぎ直して周囲を見回した、その時だった。
「……ま、待て。待たれよ……ッ!!」
広場の奥、崩れかけた集会所の陰から、数人の護衛に両脇を抱えられた一人の老エルフが、震える足取りで歩み出てきた。
長く伸びた白銀の髭、森の魔力を色濃く宿した翠緑の瞳、そして身に纏うのは、一目で国宝級と分かる神聖な魔力を帯びた法衣。エルトラ村のまとめ役であり、エルフ族の歴史を語り継ぐ『長老』その人だった。
「おお……なんという事だ。我が一族が千年の時をかけ、命と魔力を削って守り抜いてきた封印が……。目覚めてしまったのか、『緑を焼く者』……災禍の魔女よ……!!」
長老は枯れ木のような指でフォニアを指差し、恐怖と絶望に顔を歪ませてガタガタと震え出した。
「お、お前たち人間! 自分がどれほど恐ろしい封印を解いたのか分かっておるのか! その女は千年前、この大陸の半分を焦土に変え、我らエルフの同胞を数万単位で灰燼に帰した、魔王軍随一の破壊の化身……ッ! ああ、世界樹よ、我らをお守りください……ッ!」
長老がその場に泣き崩れ、周囲のエルフたちも再び武器を構えるが、恐怖で剣先が定まっていない。
だが、当の「破壊の化身」と呼ばれたフォニアは、ポカンと口を開け、首を傾げていた。
「……緑を焼く者? 大陸の半分を焦土に? お爺ちゃん、頭でも打ったのか? 我輩、そんな面倒くさいこと、生まれてこの方一度もやったことないぞ」
「な、何を戯れ言を……ッ! 千年前、空を真っ黒な瘴気で覆い尽くし、狂気の笑い声を上げながら森を焼き払ったのはお前だろうが!! 我らエルフの先祖が、百人の大魔導士の命を引き換えにした絶対封印指定の特級魔術『神樹の檻』で、貴様を霊山に封じ込めたという伝承が、この村には残っておるのだ!!」
長老が血を吐くような悲痛な叫びを上げる。
フォニアはしばらくぽかんとしていたが、やがて何かを思い出したように「あーっ!」とポンと手を打った。
「お主ら、さては勘違いしておるな? それ、我輩じゃないぞ」
「……は?」
俺たちとエルフの声が見事に重なった。
フォニアはやれやれと肩をすくめ、広場の倒れた丸太の上にちょこんと腰掛けた。
「お主らが言っている『緑を焼く者』とやら。空を黒く染めて森を焼き払い、狂ったように破壊の限りを尽くした狂人。それは我輩ではない。我輩の『双子の妹』である、リフィアのことじゃ」
「双子の、妹……?」
俺が聞き返すと、フォニアは深く頷いた。
「いかにも。我輩たち双子は、見た目こそ瓜二つ――銀色の髪、紅い瞳、捻れた山羊の角を持っておるが、性格は真逆でのう。我輩フォニアは、争い事や血なまぐさいことが大嫌いな『平和主義者』じゃ。一日中、日向ぼっこをしながら読書をしたり、人間の作った甘いお菓子を食べたりするのが何よりの幸せでのう。戦闘など、服が汚れるし疲れるから極力避けて生きてきたのじゃ」
フォニアは自分のフリルのついたドレスを自慢げに摘んで見せた。
「対して、妹のリフィアは筋金入りの『破壊主義者』にして戦闘狂じゃ。退屈しのぎに山を吹き飛ばし、機嫌が悪いという理由で国を一つ滅ぼす。千年前の大戦火の時代、魔王軍の先陣を切って世界中で大暴れし、お主らエルフの森にもちょっかいを出したのは、間違いなくあいつの方じゃな」
「ま、待て……! では、千年前、我が先祖たちが霊山に封印したというのは……」
長老が、震える声で言葉を紡ぐ。
「うむ。だから、お主らエルフの先祖の『人違い』じゃよ!!」
フォニアは急に立ち上がり、ふんぬ!と怒ったように小さな拳を振り上げた。
「聞いて驚け! 千年前のあの日、我輩はこのエルトラの近くの森に『七色に光る珍しいカブトムシ』がいると聞いて、のんびりピクニックに来ておったのじゃ! 争いから離れて、お弁当を広げ、カブトムシを観察して、さあこれからお昼寝じゃという最高のタイミングで……ッ!!」
フォニアの目から、悔しそうな涙が滲んだ。
「突然、空から百人のエルフの大魔導士たちがワラワラと現れてのう! 我輩の顔を見るなり『出たな災禍の魔女!』『ここで貴様を封じる!』とか喚き散らして、有無を言わさず特級封印魔術をぶっ放してきたのじゃ!!」
「ちょ、ちょっと待って」
ステラが信じられないという顔でツッコミを入れた。
「いくら不意打ちでも、あなたは魔王軍の最高幹部なんでしょ? エルフの魔術くらい、防げなかったの?」
「だーかーら! 我輩は平和主義者なのじゃ! いきなり攻撃されて『待て待て、人違いじゃ! 妹と間違えておる!』と何度も説明しようとしたのに、連中、恐怖でパニックになっておって全然我輩の言葉を聞かんのじゃ! しかも百人がかりで命を燃やした捨て身の術じゃろ? 我輩、争うのが面倒になって『まあいいか、少し寝ていれば誤解も解けるじゃろ』と抵抗せずに封印の中に入ってやったのじゃ」
フォニアは深い、深いため息を吐いた。
「……まさか、連中が最後まで人違いに気付かず、そのまま千年も我輩を霊山に放置するとは思わんかったがな!! おかげで魔力はすっからかん、身体はこんなに縮んでしまうし、カブトムシは逃げるし、最悪の千年じゃったわ!!」
沈黙。
圧倒的な、沈黙だった。
広場にいる全員が、限界まで目を見開き、口をぽかんと開けてフォニアと長老を交互に見つめていた。
「そ、そんな……馬鹿な……」
長老の杖がカラン、と地面に落ちた。
「我がエルフ族が、誇り高き大魔導士百人の命を犠牲にして……千年間、村の自由を奪ってまで守り続けてきた絶対封印の正体が……『ピクニックに来ていた、人畜無害な双子の姉』だったと言うのか……?」
「人畜無害とは失礼な! 怒れば山の一つくらいは消し飛ばせるわ!」
フォニアが威嚇するように小さな牙を剥くが、もはや誰一人として彼女に恐怖を抱く者はいなかった。
むしろ、エルフたちの顔に浮かんでいるのは、先祖がやらかした「歴史的で取り返しのつかない大ポカ」に対する、死にたくなるような羞恥心と絶望だった。
「……長老さん。あんたらの先祖、随分と慌てん坊だったんだな」
俺は思わず、同情を込めた目で長老を見下ろした。
長老は両手で顔を覆い、「ああ……世界樹よ……我が一族の千年は、いったい何だったのだ……」と、別の意味で泣き崩れてしまった。
「ルシアくん……僕、なんか一気に疲れが……」
テオが収縮したアマルを撫でながら、へなへなとその場に座り込む。
俺もだ。死ぬ気で魔力を圧縮して防衛戦を繰り広げたのが、急に馬鹿馬鹿しくなってきた。
「はいはい! ややこしい昔話はそこまでだ! 腹が減って死にそうな『平和主義の魔王軍幹部サマ』に、アタシのとびきりのメシを食わせてやるから、さっさと食堂に案内しな!」
マイヤの豪快な声が、凍りついた広場の空気を叩き割った。
数十分後。
エルトラの村で最も大きな集会所の広間。
先ほどまでの殺伐とした空気が嘘のように、そこには平和で、どこか狂った晩餐の光景が広がっていた。
「はふっ、はむっ! んまーーーいっ!! 何じゃこれは! この肉の弾力、そしてこの黒いタレの奥深さ! 魔界でもこんな美味いものは食べたことがないぞ!」
フォニアは自分の顔より大きな『紅冠走鳥の黒曜醤焼き』を両手で掴み、顔中を黒いタレだらけにしながら貪り食っていた。
マイヤが南の宿場町『オウカ』で仕入れた食材に、エルフの森の入り口で採れた『香命草』というハーブを合わせた、疲労回復の極上メニューだ。
「おいおい、慌てて食うな。喉に詰まらせるぞ、魔族サマ」
マイヤが呆れながら山盛りの麦飯を差し出すと、フォニアは「おかわりじゃ!」と空の皿を突き出した。
その姿は、どう見ても育ち盛りの人間の子供にしか見えない。
俺は酷使した両腕にステラの冷却魔法と治癒魔法をかけてもらいながら、向かいの席で無邪気に肉を頬張るフォニアをじっと見つめていた。
(千年前の封印が、エルフの勘違いだったのは分かった。こいつ自身に俺たちや村を滅ぼす意思がないことも、その間抜けな話ぶりから信じられる。……だが)
俺は、フォニアの双子の妹――『リフィア』という存在に、薄ら寒い悪寒を感じていた。
千年前、エルフの大魔導士百人がかりでも「封印」しかできなかった、正真正銘の破壊の化身。もし、このエルフの勘違いが事実なのだとすれば。
「……なぁ、フォニア」
俺が声をかけると、フォニアは口の周りを拭いながら「なんじゃ?」と首を傾げた。
「お前が間違えて封印されたってことは……本当の『緑を焼く者』である妹のリフィアは、千年前、封印されずにそのまま野放しになっていたってことか?」
その俺の問いに、集会所の空気が再びスッと冷え込んだ。
長老をはじめとするエルフたちが、息を呑んでフォニアを見る。
フォニアは麦飯をモグモグと飲み込み、少しだけ真面目な顔になって腕を組んだ。
「……うむ。それが我輩も気がかりでのう。あの破壊狂の妹が野放しになっておったなら、この大陸の二つや三つ、すでに消し飛んでおってもおかしくない。じゃが、封印から出た今、我輩の魔力探知を広げてみても、この大陸にリフィアの『圧倒的な破壊の気配』は感じられんのじゃ」
「感じられない? じゃあ、千年の間に寿命で死んだとか……?」
ステラが尋ねると、フォニアは鼻を鳴らした。
「我ら最高位の魔族に寿命などない。となれば、考えられる可能性は二つじゃな。一つは、千年の間に誰か途轍もなく強い勇者や神の類が現れて、リフィアを討伐したか、別の場所に封印したか」
フォニアはそこで言葉を区切り、赤い瞳をスッと細めた。
「……もう一つは。最近になって復活した『魔王』の配下として、どこかで息を潜め、力を蓄えながら『次の破壊の時』を待っているか、じゃな」
俺の脳裏に、王都の地下で俺たちを蹂躙した、あの『悪魔と化したガルス』の姿がよぎった。魔族たちは確実に動き出している。王都を落とし、次なる狙いを定めているはずだ。もし、その背後に千年前の破壊の化身であるリフィアが絡んでいるとすれば、事態は俺の想像を絶する絶望的な領域へと足を踏み入れている。
「……なるほどな。お前が俺たちについて来るって言った理由が分かったぜ」
俺が言うと、フォニアはニシシと悪戯っぽく笑った。
「その通りじゃ! 我輩は平和主義じゃが、妹の不始末には姉として責任を持たねばならん。それに、千年の眠りから覚めて魔力がすっからかんの今の我輩では、一人で旅をするのは危険じゃからのう。お主のその『純白の剣』と、あの美味そうな匂いのする飯を作る料理人がいれば、道中は退屈せんじゃろ!」
厄介極まりないが、断る理由もなかった。
何より、魔王軍の最高幹部(の一割の力とはいえ)が味方になり、魔族側の内情を知る案内役が手に入るのは、俺たちの目的である「魔族の足取りを追う」という旅において、これ以上ない強力な切り札になる。
「……分かった。同行を許可する。ただし、マイヤの飯の横取りは禁止だ」
俺が右手を差し出すと、フォニアは小さな手でそれをガシッと握り返してきた。
「交渉成立じゃ! 我輩はフォニア! 今日からお主らの『最強の用心棒(平和主義)』として、共に世界を巡ってやろう!」
こうして、南の辺境『エルトラ』での騒動は、エルフ族の千年に及ぶ勘違いの発覚という歴史的な大恥と共に幕を下ろした。
絶望の底から俺たちのパーティに加わったのは、千年前の魔王軍最高幹部にして、無邪気で平和主義な「小さな魔女」。
俺たちの魔族を追う旅は、ここからさらなる未知の領域へと加速していくのだった。




