第66話 幻惑の霊山
南の宿場町『オウカ』でマイヤの絶品料理を堪能し、魔力と肉体を完全に回復させた俺たちは、再び進化したアマル(機巧獣フェンリル形態)の背に乗り、南の最果てを目指して爆走していた。
「ルシアくん、前方の景色が変わってきたよ! あれがエルフの領土を囲む『霊山』だ!」
操縦席のテオが、風除けの魔力障壁越しに叫んだ。
平原の果てに突如として現れたのは、天を突くほど巨大な古代樹が密生し、中腹から上が分厚く淀んだ「濃霧」に覆われた異様な山脈だった。太陽の光すら遮断するその鬱蒼とした森の入り口は、まるで巨大な獣が口を開けて獲物を待っているかのような不気味さを漂わせている。
「なんか、空気が急に冷たくなった……それに、この霧、ただの水蒸気じゃないわ」
ステラが身震いしながら、樫の杖を強く握りしめた。
霊山の領域に踏み込んだ瞬間、アマルの四肢を構成する流体金属が「ズズッ……」と不自然な摩擦音を立て、爆速だった滑走スピードが急激に落ち始めた。
「くそっ、霧の中に高密度の『幻惑の魔力』が混じってる! アマルの方向感覚が狂わされてるんだ!」
テオが必死に純鉄ギアの出力を調整するが、周囲はすでに一寸先も見えない白濁の世界。前後左右はおろか、上下の感覚すら曖昧になっていく。
『ホゥ……。ホロロロロ……』
ふと、濃霧の奥からフクロウの鳴き声に似た、底冷えするような声が響いた。
一つではない。四方八方から、幾重にも反響しながら俺たちの鼓膜に直接へばりついてくる。
「幻怪鳥の群れか……! ルシア、気をつけな! 奴らの声は精神に直接干渉して――」
マイヤが巨大包丁を構えて叫んだ直後、霧がうねり、俺たちの目の前に『それ』が姿を現した。
「……なっ!?」
俺は思わず息を呑み、全身の毛穴が粟立つのを感じた。
霧の中から現れたのは、鳥の魔物ではない。王都の地下で俺たちの希望を粉々に打ち砕き、絶対的な力で蹂躙した、あの『悪魔と化したガルス』の姿だったのだ。
『無駄ダ。矮小ナ人間ガ、抗ウナ……』
魔族の冷酷な声が脳裏に響く。幻覚だと分かっているのに、王都で味わったあの絶望感と死の恐怖が、フラッシュバックのように全身の筋肉を硬直させる。
「いやぁぁぁっ! こないでっ!!」
ステラが悲鳴を上げ、杖から無差別に炎魔法を放つが、炎は魔族の幻影をすり抜け、ただ虚しく霧を焦がすだけだった。幻影はステラにゆっくりと四本の腕を伸ばし、その首を刈り取ろうと迫る。
「ステラ!!」
俺は激しく揺れるアマルの背の上で、丹田から練り上げた魔力を一気に爆発させた。
(惑わされるな。あれは霧が作り出したただの幻だ。だが、このままじゃ精神を削り殺される!)
俺は両脚の筋肉へ極限まで高密度に魔力を『圧縮』し、ギリリッ!と鋼のワイヤーのように引き締まった脚力で、アマルの背中に岩のように己の身体を固定した。
続いて、両腕の筋繊維にも魔力を圧縮。毛細血管が悲鳴を上げ、皮膚の下に赤い斑点が浮かび上がるほどの負荷をかけながら、腰のホルダーから「純白の剣」を強引に引き抜いた。
ズゥンッ……!!
抜刀と同時に腕を襲う、骨がへし折れそうなほどの異常な重力と密度。だが、今の俺にはこの重さこそが、幻覚を打ち払う唯一の「絶対的な現実」として感じられた。
「消えろ……過去の亡霊ッ!!」
身体強化による超人的なスイングスピードで、俺は純白の剣を大上段から水平へと、薙ぎ払うように振り抜いた。
狙いは魔族の幻影ではない。この霊山を覆う「幻惑の魔力を帯びた霧そのもの」だ。
パァァァァァァァンッ!!!!!
物理的な風圧ではない。狂腕の鍛冶師が極限の呪いから錬成した『概念を斬る刃』が、大気を満たしていた幻惑の魔力というシステムそのものを、空間ごと真っ二つに両断した。
キィンッ!というガラスが割れるような甲高い音と共に、四本腕の魔族の幻影が砕け散る。
それだけではない。
俺の剣閃が通り過ぎた軌跡に沿って、霊山を覆っていた分厚い濃霧が、まるで巨大な刃物でケーキを切り分けたかのように、パカッと左右に分断されたのだ。
『ギャァァァァァッ!!』
霧に潜んで精神攻撃を仕掛けていた無数の幻怪鳥たちが、隠れ蓑と魔力を根こそぎ断ち斬られ、ボトボトと無様に地面へと墜落していく。
「ハァッ……ハァッ……」
俺は酷使した両腕の痛みに顔を歪めながら、純白の剣をゆっくりと鞘に収めた。
「……幻覚は見破れなくても、幻覚を見せる『理不尽』ごと叩き斬ればいいだけだ」
「ルシアくん……! す、すごい……霧が完全に晴れちゃった……!」
腰を抜かしていたステラが、分断された霧の向こう側を見て目を輝かせた。テオとマイヤも、呆気にとられたようにポカンと口を開けている。
霧が晴れたことで、アマルの流体センサーも完全に正常な機能を取り戻した。
『ピュイォォォォォンッ!!』
アマルが勝利の雄叫びのような駆動音を上げ、再び爆発的なスピードで霊山の斜面を駆け上がっていく。
鬱蒼とした森の木々を抜け、霊山の頂を越えた時。
俺たちの眼下に、息を呑むような絶景が広がった。
広大な盆地。そして、人間界の建築様式とは明らかに異なる、巨大な樹木と一体化したような幻想的で静謐な集落が、深い森の入り口に寄り添うようにして存在していた。
周囲には、他者を寄せ付けない強固な魔法結界の淡い光がドーム状に張られている。
「あれが……南の辺境の村……」
俺が呟くと、テオが操縦桿を握り直して頷いた。
「間違いない。エルフの森への唯一の入り口、『エルトラ』だ!」
長く過酷な旅路の末、俺たちはついに未知なる森の民の領域へと辿り着いた。
だが、あの強固な結界と、静まり返った村の空気は、よそ者である俺たちを決して歓迎してはいないことを、無言のうちに告げていた。




