第65話 南の宿場町
境界の大河を越えた俺たちは、完全に魔力が尽きて気絶したテオを背負い、川岸からほど近い場所に見えた灯りを目指して歩いた。
辿り着いたのは、南の辺境へと続く街道の要衝、宿場町『オウカ』。
雪山やドワーフの地下王国とは打って変わり、夜であっても生温かい風が吹き抜け、街路樹には南国特有の大きな葉が揺れている。レンガ造りの建物が並ぶ街並みは活気に満ちており、道行く人々の服装も薄手で開放的だった。
「よし、今日はこの宿で決まりだ。テオをベッドに寝かせてやってくれ」
マイヤが交渉してくれた小綺麗な宿屋の一室にテオを寝かせ、ステラがゆっくりと回復魔法をかけていく。
「テオくん、魔力回路がすっからかんになっちゃってる。生命力には問題ないけど、これは一晩ぐっすり眠って、栄養のあるものをたくさん食べないと治らないわね」
ステラが額の汗を拭いながら言った。
「なら、私の出番だな」
マイヤは背負っていた巨大な荷袋を床に置き、黄金の瞳をギラリと輝かせた。
「さっき街の入り口を歩いた時、いくつか『面白そうな食材』の匂いが鼻をついた。ルシア、お前もさっきの無茶な身体強化で腕の筋肉がズタボロだろ? 限界まで酷使した筋肉と魔力回路を極限まで修復する、南国特有の『超回復メシ』を作ってやる。宿の厨房を借りてくるから、待ってな!」
マイヤは肉包丁だけを携え、弾むような足取りで部屋を飛び出していった。
一時間後。
宿の部屋の扉が開き、俺とステラの胃袋を鷲掴みにして暴力的に揺さぶるような、とんでもなく濃厚で香ばしい匂いが室内に流れ込んできた。
「お待たせ! 南の宿場町特製、『紅冠走鳥の黒曜醤焼き』だ!!」
マイヤがテーブルの上にドンッと置いた大皿を見て、俺は思わず生唾を飲み込んだ。
熱々に熱せられた鉄板の上で、分厚く切られた鶏肉のような魔獣の肉が、ジュゥゥゥゥッ!と凄まじい音を立てて脂を弾けさせている。だが、何より目を引くのはその肉にたっぷりと絡みついた「漆黒のタレ」だった。
「マイヤさん、この真っ黒なタレは……?」
「このオウカの街周辺でしか作られていない、大豆によく似た魔植物を何年も樽で寝かせて発酵させた『黒曜醤』って調味料さ。ドワーフの国じゃ絶対にお目にかかれない、奥深くて強烈な旨味の塊だ」
匂いだけで気絶していたテオが「う、うみゃそう……」と目を覚まし、ふらふらとテーブルに這い寄ってくる。
俺たちはたまらずフォークを突き立て、黒いタレが絡んだ分厚い肉塊を口に放り込んだ。
「――――ッ!!?」
噛み締めた瞬間、俺は目を見開いた。
なんだ、この肉の弾力は。これまでの旅で食べてきたどんな鳥肉とも違う。大地を蹴って爆走する魔獣特有の、鋼のように引き締まった強靭な筋肉。だが決して硬いわけではなく、噛み返すたびに繊維の奥から信じられないほど濃厚な肉汁が溢れ出してくる。
そして、肉の旨味を何十倍にも引き上げているのが、表面を覆う『黒曜醤』だった。
ただ塩辛いだけではない。長い年月をかけて発酵したことで生まれる、脳髄が痺れるような深いコクと、ほのかな甘み。それが鉄板の熱で焦がされることで、暴力的なまでの香ばしさを放ち、肉の脂と完璧に融合しているのだ。
「う、美味しいぃぃぃっ! お肉を噛むたびに、口の中が旨味で爆発しそう……!」
ステラが両頬を押さえ、幸せそうに身悶えしている。
「はぐっ、むぐっ……! すごい、身体の奥からポカポカして、空っぽだった魔力回路にドクドク力が流れ込んでくるのが分かるよ!」
テオも無言で肉を頬張り、みるみるうちに血色を取り戻していく。
俺も夢中で肉を咀嚼し、マイヤが一緒に持ってきた大盛りの白麦飯をかき込んだ。
(……すげぇ。純白の剣を振るうために極限まで魔力を『圧縮』し、断裂しかけていた腕の筋繊維に、濃密なタンパク質と魔力が染み渡っていくのが分かる)
ただ空腹を満たすだけではない。マイヤの料理は、次の死闘を生き抜くための確かな「血肉と装甲」を俺の身体に与えてくれているのだ。
「ハッハッハ! いい食いっぷりだ! やっぱ、その顔を見なきゃ料理した甲斐がないからな」
マイヤは腕を組み、自分が作った料理が一瞬で平らげられていく様を、心底嬉しそうに眺めていた。
「この黒曜醤……本当に美味いな。肉の強さに全然負けてない」
俺が口の周りを黒くしながら言うと、マイヤは得意げに鼻を鳴らした。
「だろ? この気候風土じゃないと絶対に作れない、熟成の賜物さ。少し多めに買い込んできたから、今後の野営でも色んな料理に使ってやるよ」
限界を超えた疲労と魔力切れは、南の土地の豊穣な味覚と、マイヤの腕前によって完全に癒やされた。
食後の温かいハーブティーを飲みながら、窓の外の南の星空を見上げる。
「ここからさらに南下すれば、いよいよエルフの領土に接する辺境の村『エルトラ』だね」
テオが新調したアマルを磨きながら、真剣な顔で呟いた。
「ああ。ここからは未知の領域だ。ドワーフの鑑定士も言っていたが、エルフの森はそれ自体が意思を持つ迷宮らしい。気を引き締めていこう」
俺の言葉に、仲間たちが力強く頷いた。
腹を満たし、確かな活力を取り戻した俺たちは、温かい南の宿場町の夜の中で、明日への英気を養うべく深い眠りについた。




