第64話 境界の大河
雪山の境界線を越えた途端、肌を刺すような極寒の風は嘘のように鳴りを潜めた。
見渡す限り広がるのは、太陽の光をいっぱいに浴びた青々とした大平原。南の辺境へと続く、広大な緑の海だった。
「ぷはぁぁぁっ!! やっぱ地上の空気は最高だね!! 肺の奥まで澄み渡る気分だよ!」
マイヤが分厚い毛皮のコートを脱ぎ捨て、大きく伸びをして清々しい風を胸いっぱいに吸い込む。ステラも眩しそうに目を細め、軽やかな足取りで平原の草を踏みしめた。
「よし。気温も安定したし、ここからがいよいよアマルの本領発揮だ」
テオが自信に満ちた笑みを浮かべ、自身の懐で温めていた漆黒のスライムを取り出した。
「頼むよ、アマル。僕たちの足になってくれ!」
『ピュイッ!』
テオの手から飛び降りたアマルは、平原の土に触れた瞬間、爆発的な勢いで漆黒の身体を膨張させた。
ドロドロの流体金属がうねりを上げ、瞬く間に形を成していく。以前の三人が乗れる銀狼の姿ではない。体長は五メートルを超え、四人がゆったりと乗れるほどの巨大で流線型を帯びた、漆黒と純白の装甲が入り交じる【重装甲の機巧獣】へと変貌を遂げたのだ。
ガシャァァンッ!!
流体金属の内部で、バルゴが鍛え上げた無数の純鉄ギアが完璧な精度で噛み合い、背中から四つの座席がせり出してくる。胸部に埋め込まれたアマルの「核」は高出力の魔力エンジンとして機能し、青白い清浄な魔力の光を脈打つように放っていた。
「さあ、みんな乗って!」
テオに促され、俺たちが背中の座席に乗り込むと、硬い金属のはずのシートがスライム特有の柔らかなゲル状に変化し、それぞれの体格に合わせてピタリと密着した。
「流体金属のサスペンションだ。平原のどんな悪路を走っても、揺れを完全に吸収するから、マイヤさんの荷袋の中の卵一つ割れないよ。行くよ、しっかり掴まってて!」
『ピュイィィィィィィンッ!!』
アマルの胸部のコアが激しく発光した次の瞬間。
轟音と共に、周囲の景色がカッと後方へ吹き飛んだ。
「うおおおおおおっ!?」
「きゃあああああっ!!」
「はっはァ! こいつぁ最高に速ぇや!!」
巨大な四肢が大地を蹴り砕くたび、アマルは凄まじい速度で平原を滑空していく。足回りの流体金属が地形の凹凸を瞬時に読み取って形を変えるため、信じられないほどの爆速でありながら、乗り心地はまるで静かな湖面を滑っているかのように滑らかだった。
通常なら十四日はかかる徒歩の旅路。しかし、アマルの圧倒的な機動力は、その常識を完全に置き去りにしていた。
――そして、爆走を続けて三日目の昼下がり。
「ルシアくん、前方に障害物! あれは……川、なのかな!?」
最後尾の操縦席からテオが叫んだ。
俺は風除けの魔力障壁の中から前方を睨みつけ、思わず息を呑んだ。
「川なんて生易しいもんじゃない。あれは……『海』だ」
南の大陸を真っ二つに分断する巨大な水流、『境界の大河』。
対岸が見えないほどの圧倒的な川幅と、家屋すら飲み込みそうな白波を立てて荒れ狂う激流が、俺たちの行く手を完全に塞いでいた。橋など当然架かっていない。
「アマル、止まるか!?」
「ううん、止まらない! 流体金属の特性を見せてやる!」
テオが両手で操縦装置を握り、渾身の力でアマルへ指示を送る。
『ピギィィィィンッ!!』
アマルは激流の岸辺へ向かってトップスピードのまま突っ込み、水面に触れる直前、その巨大な四肢を液状化させた。四本の足が、水面を捉える幅広の「フロート(滑走翼)」のような形状へとシームレスに変形する。
ザパァァァァァァァンッ!!!
重装甲の銀狼が、沈むことなく荒れ狂う激流の上を跳ねるように滑走し始めた。純鉄ギアが魔力を推進力に変え、後方に猛烈な水しぶきを上げながら水上を爆速で駆け抜けていく。
「すごいすごい! アマル、お水の上も走れるのね!」
ステラが身を乗り出して歓声を上げた、その直後だった。
ゴボァァァァァァァッ!!!
俺たちの真横の水面が、山のように大きく盛り上がった。
水飛沫の中から姿を現したのは、全身を黄金の硬い鱗で覆い、巨大な刃のような背びれを持つ二体の水棲魔獣――【黄金の双鯱】だった。
「ルシア、来るぞッ!」
マイヤの警告と同時、双鯱の一体が巨大な口を開き、俺たちのアマルを丸呑みにしようと水面から跳躍した。
「ステラ、体勢を崩してくれ!」
「任せて! 『氷結の縛鎖』!!」
ステラの杖から放たれた極低温の魔法が、跳躍した双鯱の周囲の水分を急激に凍らせ、空中で重い氷の枷となってその動きを一瞬だけ鈍らせた。
(その一瞬で十分だ!)
俺は激しく揺れるアマルの背の上で立ち上がり、丹田から練り上げた魔力を、自身の両脚と両腕の筋肉へ向かって極限まで高密度に『圧縮』した。
ギリリッ……!!
圧縮された魔力が筋肉の繊維を鋼のワイヤーのように引き締め、俺の肉体を暴力の器へと作り変える。足裏の魔力をアマルの背中に吸着させ、水上の猛烈な揺れの中でも岩のように下半身を固定した。
そして、腰のホルダーから「純白の剣」を引き抜く。
ズゥンッ……!!
抜刀した瞬間に腕を襲う、骨が軋むような恐ろしい重力。俺は圧縮した腕の筋肉を悲鳴ギリギリまで酷使し、その異常な密度の刀身を大上段に構え、迫り来る黄金の双鯱へと強引に振り下ろした。
ヒュンッ……。
パァァァァァァァンッ!!!!!
身体強化の爆発的なスイングスピードと、極限まで圧縮された刀身。
放たれた「概念を断ち割る光の刃」は、双鯱の黄金の硬鱗はおろか、その下にある荒れ狂う激流そのものすらも、抵抗なく真っ二つに両断した。
「ギ、ギャァァァァァッ!?」
真っ二つに裂かれた黄金の鯱が、凄まじい血しぶきと共に川底へと沈んでいく。
相方を一撃で屠られたもう一体の双鯱は、純白の剣が放つ絶対的な恐怖を本能で悟ったのか、悲鳴のような鳴き声を上げて慌てて激流の底へと逃げ帰っていった。
「ふぅ……」
俺は腕の筋肉の痛みに耐えながら、静かに純白の剣を鞘に収めた。
切り裂かれた激流の波は、不自然なほどの凪となって、アマルが滑走するための穏やかな水面を作り出していた。
「ルシアくん、無茶苦茶だよ……川の水ごと魔物を斬っちゃうなんて」
テオが引きつった笑いを浮かべながら、懸命にアマルの操縦を続ける。
「だが、これで対岸まで邪魔者はいないだろ」
俺が汗を拭いながら笑いかけると、マイヤも呆れたように肩をすくめ、ステラはパチパチと拍手をしてくれた。
やがて、遠くに南の対岸が見えてきた。
しかし、激流を水上滑走するという荒業の代償か、操縦席のテオの顔色は極度の消耗で青白くなっていた。
「ご、ごめん……みんな。アマルの出力維持……もう、限界……」
ドサッ。
対岸の浅瀬にアマルが乗り上げた瞬間、スライムの身体はシュルシュルと手のひらサイズに収縮し、テオもそのまま砂浜に倒れ込んでしまった。
「テオくん! よく頑張ったわね、すぐ治癒魔法をかけるから!」
ステラが慌ててテオの元へ駆け寄る。
「やれやれ。今日はここから動けそうにないな」
マイヤは背負っていた巨大な荷袋を下ろし、ドンッと砂浜に置いた。
「仕方ない。南の土地に着いたことだし、今日はここらで野営だ。テオの体力をガッツリ回復させる、とびっきりの南国メシを作ってやるよ!」
俺たちは黄金に輝く南の夕日を見上げながら、心地よい疲労感と共に砂浜に腰を下ろした。




