第62話 南の辺境エルトラへ
大溶鉱広場の『素材買取所』で、年老いたドワーフの鑑定士から南の辺境の村「エルトラ」の情報を得た俺たちは、重い足取りで《燻り黒豚亭》へと戻ってきた。
閉鎖的なエルフの森。その入り口となる辺境の村。
次なる目的地と道筋ははっきりと定まった。だが、俺たちの間には、これからの激闘への緊張感とは違う、ひどく重苦しく、寂しい空気が横たわっていた。
「……さて。それじゃあ、アタシの役目はここまでだね」
宿屋の一階。荷物をまとめたマイヤが、いつものように巨大な肉包丁を背負い、俺たち三人の前に立った。
その言葉に、ステラの肩がビクッと跳ねる。
「マイヤ、さん……。本当に、残るの……?」
「当たり前だろ。私が命懸けで雪山を越えてきたのは、あの『幻の霊火』で最高の料理を作るためだ。ゴルドのジジイも、私がこの街の厨房に残るなら大歓迎だって言ってくれてるからな。……お前らみたいな無鉄砲なガキどもの魔族退治に、しがない料理人がこれ以上付き合ってられるかっての」
マイヤはわざとらしく鼻で笑い、黄金の瞳を細めた。
強がりではない。彼女の言う通りだ。彼女は戦士でも魔法使いでもなく、己の包丁一本で生きてきた誇り高き料理人だ。ドワーフの国最高の厨房と、究極の熱源。料理人にとってこれ以上の居場所はない。彼女が魔族という理不尽な死地に自ら赴く理由など、どこにもなかった。
「……マイヤ。今まで、本当にありがとう」
俺は一歩前に出て、深く頭を下げた。
「お前がいなきゃ、俺たちは雪山で凍死してた。毒蜘蛛の巣で全滅してたし、廃棄層の化け物にも殺されてた。お前の飯があったから、俺たちは心も体も折れずに、今日まで戦い抜くことができたんだ。……お前の料理は、世界一だ」
「ルシアくんの言う通りだよ。マイヤさん……っ、本当に、ありがとう……!」
テオもボロボロの包帯の手で涙を拭い、深く頭を下げる。
ステラに至っては、もう言葉にならず、マイヤの胸に飛び込んでわあわあと子供のように泣きじゃくっていた。
「……馬鹿野郎。大袈裟なんだよ、お前らは」
マイヤは少しだけ声を震わせながら、ステラの背中を優しく撫で、俺とテオの頭を乱暴に小突いた。
「ほら、さっさと行きな! アタシがエールを飲んでる間に、とっとと視界から消えろ! じゃなきゃ、未練が湧いちまうだろ!」
マイヤは俺たちに背を向け、カウンターの丸椅子にドカッと腰を下ろした。女将が静かに、なみなみと注がれた黒エールのジョッキを彼女の前に置く。
「……行くぞ」
俺はステラの肩を抱き、テオと共に宿屋の重い木戸を押し開けた。
振り返らない。振り返れば、絶対に引き止めてしまうと分かっていたから。
喧騒に包まれる「鉄床通り」を歩き、地上へと続く古代の巨大昇降機へと向かう。
足取りは鉛のように重かった。背中の純白の剣も、アマルも、これ以上ないほど心強いはずなのに、隣で不敵に笑ってくれる「黄金の瞳」がないだけで、パーティの体温が半分になってしまったような喪失感があった。
昇降機の分厚い鉄の扉が開き、俺たちは無言でその冷たい床に足を踏み入れた。
ギギギギギ……ッ。
重苦しい駆動音と共に、鉄格子がゆっくりと閉まり始める。
その時だった。
「おーい!! お前らァァァァッ!!!」
大溶鉱広場の奥から、ドワーフたちを押しのけ、猛烈な勢いで走ってくる影があった。
背中に巨大な肉包丁を背負い、大きな荷袋を振り回しながら、マイヤが全速力で昇降機に向かって突っ込んでくる。
「マイヤ!?」
俺は思わず鉄格子に駆け寄った。
「待てェェェッ!!」
マイヤは完全に閉まりかけていた鉄格子の隙間に、強引に巨大包丁の柄をねじ込み、凄まじい膂力でこじ開けた。そして、俺たちのいる昇降機の中へと、ドサリと勢いよく転がり込んできた。
「ハァッ……ハァッ……! ギリギリ、セーフ……っ!」
床に座り込み、肩で息をするマイヤ。
「マイヤさん!? ど、どうして……!」
ステラが目を丸くして駆け寄る。
「……どうしてって、決まってるだろ」
マイヤは顔を上げ、ニヤリと、あの不敵で最高に頼もしい笑みを浮かべた。
「ゴルドのジジイとエールを飲んでたら、聞いたんだよ。南の辺境『エルトラ』の奥、エルフの森には、どんな病も治し、一滴で至高のスープができる『世界樹の朝露』ってのがあるらしいじゃないか。おまけに、森には地上じゃお目にかかれない幻の魔獣がウジャウジャいるってな」
マイヤは立ち上がり、俺の胸ぐらを軽く小突いた。
「幻の霊火は確かに最高だった。だけどな……料理人が一番興奮するのは、火の番をしてる時じゃない。『まだ見ぬ極上の食材』を見つけた時だ。……それに」
マイヤは少しだけ照れくさそうに視線をそらし、頭を掻いた。
「どれだけ極上の火で、最高級の蟹を焼いたって……それを『美味ぇ、美味ぇ』って泣きながら食ってくれる、世界一の【上客】がいなきゃ、作り甲斐がねぇんだよ」
「マイヤ……」
「お前らみたいな世間知らずのガキどもが、エルフの森の幻の食材を前にして、丸焦げの炭にするか、腹壊して死ぬのが目に見えてるからな。……仕方ねぇ。魔族の首を獲るその日まで、この『専属シェフ』が、お前らの胃袋を完璧に管理してやるよ!」
その言葉を聞いた瞬間。
ステラが弾かれたようにマイヤに飛びつき、今度こそ嬉し涙を大声で流して泣きじゃくった。テオも顔を覆って泣き笑いし、俺は……俺はただ、柄にもなく鼻の奥がツンと熱くなるのを必死に堪えて、マイヤの拳に自分の拳を強く打ち付けた。
「……給料は出せないぞ、専属シェフ」
「ハッ、出世払いでたっぷりふんだくってやるよ。覚悟しな、剣士サマ!」
そこへ、大溶鉱広場の方角から、ズシンズシンと重い足音が響いてきた。
昇降機の扉の隙間から覗くと、エプロン姿のゴルドが近づいてきていた。
「……少し待て、料理人」
ゴルドは無言でマイヤの巨大包丁に手を伸ばした。マイヤが目を細めながらも素直に差し出すと、彼は腰の大型フライパンの底から、指先ほどの青白い霊火の欠片を慎重に掬い取り、鍛冶師のような手つきで刀身の中心へと静かに叩き込んだ。
チリッ……と、刀身が一瞬だけ青白く輝き、霊火の欠片は刃の奥深くへと吸い込まれていった。
「餞別だ。うちの霊火は、料理人の怒りと熱量に反応する。お前みたいな狂った料理人の包丁にこそ、宿るべき炎だ」
ゴルドは包丁をマイヤに返すと、それ以上は何も言わず、踵を返して広場の奥へと歩いていった。
マイヤは受け取った包丁をしばらく無言で眺め、やがてその刀身をギラリと光らせながら背中に差し直した。
「……借りができたな、料理長。出世払いで返しにくる」
その呟きは、もうゴルドには届かなかった。だが、その背中は確かに、一瞬だけ止まった気がした。
ガシャンッ!!
四人を乗せた昇降機の扉が完全に閉まり、地底の世界に別れを告げるように力強く上昇を始めた。
数週間ぶりに浴びる、地上の眩しい太陽の光。冷たくも清々しい風が、四人の頬を優しく撫でていく。
失われたものは多い。だが、俺たちはもう孤独ではなかった。
純白の剣、反転の盾、限界突破の魔法、そして――どんな絶望の中でも生きる活力を与えてくれる、最強の料理人。
「よしっ! 行くぞ、南の辺境エルトラへ!」
マイヤの号令と共に、俺たちは眩しい太陽に向かって力強く一歩を踏み出した。
未知なる魔法と森の民が待つ、新たな旅が、四人の確かな絆と共に幕を開けた。




