第59話 すれ違う乙女心 間話
マイヤが覇王溶岩蟹との死闘を制し、至高の料理を完成させた翌日。
全身打撲と重度の筋肉痛でベッドから動けなくなった彼女を《燻り黒豚亭》の客室に残し、俺とステラは二人で街の散策に出ることになった。
テオが廃棄層の工房に入ってから、もう十日が経つ。
過酷な雪山越えと命懸けの戦いが続いていた俺たちにとって、何の危険もない街での休息は、あまりにも久しぶりのことだった。
「お、待たせたなステラ……って、あれ?」
宿屋の一階に降りた俺は、先に待っていたステラの姿を見て思わず足を止めた。
「あっ、ルシアくん! おはよう!」
振り返ったステラは、いつもの機能性重視の魔導衣ではなく、地下王国の市場で見つけたらしい、少し洒落た装いをしていた。
白いブラウスの上に、深い赤色の刺繍が施されたドワーフ特有の厚手のケープを羽織り、金色の髪は片側だけを編み込んで、見慣れない「青い輝石のヘアピン」で留めている。
いつもより少しだけ大人びていて、それでいてどこか柔らかい雰囲気を纏っていた。
「……どうかな? マイヤさんが寝る前に『たまには女の子らしい格好をして、男の目を引いてきな!』って貸してくれたんだけど……変、じゃないかな?」
ステラは頬を少し朱に染め、もじもじとケープの裾を指でいじっている。上目遣いでこちらを窺うその仕草は、純粋に可愛らしいと俺の目にも映った。
「いや、すごく似合ってると思うぞ。ただ……」
「ただ?」
パァッと顔を輝かせたステラに対し、俺は顎に手を当てて真剣に分析を口にした。
「その青い輝石のヘアピン。魔力を帯びてるみたいだけど、防御力は皆無だな。もしゴブリンの棍棒が頭を掠ったら、そんな華奢な金具じゃ一発で砕け散って、かえって破片が危ないぞ。もっと実用的な『ミスリルの額当て』とかの方が――」
「…………る」
「え?」
「ルシアくんのバカァァァッ!! そういうこと聞いてるんじゃないのに!!」
ステラは顔を真っ赤にして叫ぶと、ズンズンと足音を荒立てて宿屋を飛び出してしまった。
「お、おい! 待てってば!」
俺は頭を掻きながら、慌てて彼女の後を追いかけた。
大溶鉱広場は、今日も凄まじい熱気と喧騒に包まれていた。
巨大な歯車が地響きを立てて回り、オレンジ色の照明用魔石が街を昼間のように照らし出している。
「まったく……ルシアくんは本当に、剣と戦闘のことしか頭にないんだから」
少し前を歩くステラは、まだ頬を膨らませてプンスカと怒っている。俺は苦笑いしながら、人混みにはぐれないよう彼女のすぐ後ろを歩いた。
「悪かったって。王都での負けが、まだ頭から離れなくてさ。……でも、本当に似合ってるよ。街のドワーフたちも、さっきからステラのことチラチラ見てるしな」
「えっ……ほ、本当に?」
ステラの足がピタリと止まり、振り返った彼女の顔が再びボンッと赤くなった。機嫌が直るのは驚くほど早い。
「あ、ねえルシアくん! あそこのお店、見てみたい!」
ステラが指差したのは、武骨な武器屋が並ぶ通りには珍しい、精巧なガラス細工や小さな魔石の装飾品を扱う露店だった。
「うわぁ、綺麗……! この赤いペンダント、中に小さな炎が閉じ込められてるみたい。ねえルシアくん、これどうかな?」
ステラは胸元に赤いペンダントを当て、期待に満ちた目で俺を見上げてくる。薄暗い店先で、ペンダントの微かな光が彼女の白い肌を美しく照らしていた。
(……これは、間違えられないぞ)
先ほどの失敗を挽回すべく、俺はペンダントを手に取り、神経を研ぎ澄ませて真剣に鑑定した。
「……なるほど。確かに綺麗な装飾だが、内包されている火属性の魔力は極めて微弱だ。これなら、お前の杖に結びつけてある『炎晶石』の方が火力の底上げになる。費用対効果を考えると、わざわざ買う必要は――」
「もうっ! だから強さの話じゃなくて、似合うかどうかって聞いてるの!」
ステラがペンダントをドンッと台に戻し、再びそっぽを向いてしまった。
「なんで怒るんだよ? 命に関わる装備選びだぞ?」
「命の話なんかしてない! 今日は……今日は、デートみたいなものだって、私だけが思ってたのがバカみたい……」
ステラがうつむき、消え入りそうな声で呟いた。
その言葉の意味を俺の鈍い頭がようやく理解しそうになった、その時だった。
「どけ、どけェーッ! 暴走荷車のお通りだァッ!!」
坂の上から、鉄鉱石を山積みにした巨大な鉄の荷車が、車輪から火花を散らしながら猛スピードで突っ込んできた。ブレーキの歯車がイカれているらしい。
「ステラ!」
俺は考えるより先に身体を動かしていた。
うつむいていたステラの腕を強く引き寄せ、自分の胸の中にすっぽりと抱き込むようにして、路地の壁際へと勢いよく飛び退く。
轟音と共に、数ミリ先を巨大な荷車が駆け抜けていった。突風が吹き荒れ、ステラの青いヘアピンがカチャリと揺れる。
「……怪我は? どこかぶつけなかったか?」
俺はステラを抱き寄せたまま、彼女の顔を覗き込んだ。
「あっ……う、うん。大丈夫……」
ステラは俺の胸板に両手をついたまま、顔を耳まで真っ赤にして硬直していた。至近距離で見つめ合う形になり、彼女の甘い香りが鼻をくすぐる。
「……やっぱり、防御力のない装飾品は危ないな。いざって時に、俺が守りきれないかもしれないからな」
俺が苦笑いしながらそう言うと、ステラは大きく見開いていた目を少しだけ伏せ、やがて、困ったようにクスッと笑った。
「……もう、ルシアくんは本当に、仕方ないなぁ」
怒っていたはずの彼女の顔には、呆れと、それを上回るほどの嬉しそうな安堵が浮かんでいた。
結局、赤いペンダントは買わなかった。
代わりに二人で、屋台で売られていたドワーフ特製の「焼き甘蜜リンゴ」を頬張りながら、活気ある大通りをゆっくりと歩いた。
剣のことばかり考えてしまう不器用な俺と、そんな俺に振り回されながらも隣を歩いてくれるステラ。
過酷な旅の中で、こんな穏やかな時間が少しでも長く続けばいいと、俺は柄にもなく思っていた。
――だが、休息の時間は終わりを告げる。
その日の夕方。
大溶鉱広場の入り口で、ボロボロになった防毒面を片手に持ち、ススだらけになった一人の少年が、満面の笑みで俺たちに向かって大きく手を振っていた。
テオだ。
彼の背中には、以前とは全く違う、圧倒的な魔力と神聖な光を放つ「真新しい大盾」と、布で厳重に包まれた「一本の剣」が背負われていた。




