第58話 最高の料理人
ガコンッ、ギギギギギ……。
灼熱の地底から、古代の昇降機が重苦しい駆動音を立てて上層へと帰還してきた。
「マイヤさん……っ!」
昇降機の前に展開されていた赤い魔力障壁がフッと消滅するのと同時に、待ちわびていたステラが祈るように両手を握りしめる。俺も、思わず息を呑んで鉄格子を見つめた。
鉄格子がゆっくりと開いた先。
そこに立っていたのは、全身の革エプロンを焦がし、煤と火傷でボロボロになったマイヤの姿だった。彼女は荒い息を吐きながら、自身の背丈を優に超える巨大な赤黒い塊――覇王溶岩蟹の「右ハサミ」に太い鉄の鎖を巻き付け、ズルズルと力任せに引きずり出してきた。
「お待たせ……。極上のカニ肉の、お持ち帰りだ」
マイヤはニヤリと不敵に笑うと、そのまま限界を迎えたように膝から崩れ落ちた。
「マイヤ!」
俺とステラが慌てて駆け寄る。ステラがすぐさま治癒魔法をかけようとするが、マイヤはそれを手で制し、自身の横に転がる巨大なハサミをポンと叩いた。
「私の怪我なんか後回しだ……。早く、こいつを『大釜の聖餐亭』へ運ぶぞ。……鮮度が落ちる前に、最高の火を入れなきゃならないからな」
満身創痍になってもなお、その黄金の瞳に宿る「料理人」としての執念の炎は、少しも衰えてはいなかった。
俺とステラで巨大なハサミを荷車に乗せ、マイヤに肩を貸しながら、俺たちは再びドワーフ王国最高の厨房『大釜の聖餐亭』の分厚い扉を蹴り開けた。
ドスォォォォンッ!!
静まり返る厨房のど真ん中に、巨大な蟹のハサミが叩きつけられた。
「……約束の品だ、ゴルド料理長。傷一つ付けず、最高に活きのいい状態で叩き切ってきたぜ」
厨房にいた数十人のドワーフの料理人たちが、信じられないものを見るように息を呑み、完全に言葉を失った。あの絶対的な装甲と熱を誇るマグマの覇者のハサミが、人間の小娘によって持ち帰られたのだ。
奥から、巨漢のゴルド料理長がゆっくりと歩み出てきた。
彼は無言のまま、巨大なハサミの切断面に顔を近づけ、太い指で甲殻の断面をなぞる。その鋭い眼光は、一切の妥協を許さないプロの鑑定眼だった。
「……信じられねぇ。水蒸気爆発で関節の殻を脆くしてから、一撃で骨の髄まで断ち切ってやがる。肉の繊維が一切潰れてねぇ。完璧な……いや、神業みてぇな『下ごしらえ』だ」
ゴルドはゆっくりと立ち上がり、ボロボロのマイヤを見下ろした。その顔から先ほどの侮蔑の色は消え去り、同じ高みを目指す「職人」への深い敬意が刻まれていた。
「……俺の負けだ、人間の娘。いや、マイヤ料理長。約束通り、あの『幻の霊火』……お前の好きに使え」
ゴルドが厨房の奥へ道を譲る。
マイヤは俺たちの肩から離れ、ふらつく足取りで、しかし確かな足取りで、厨房の最奥――純白の炎が静かに揺らめく特等席へと歩みを進めた。
(これが……幻の霊火)
間近で見るその炎は、マグマ層の暴力的な熱とは対極にあった。チロチロと静かに燃えているだけなのに、内包する熱量は桁違い。それでいて、周囲の空気を一切焦がさない、神聖なまでに純化された究極の熱源。
マイヤは深く息を吸い込み、黒鉄の巨大包丁を構えた。
「さあ、見とけよ。私の集大成だッ!」
マイヤの包丁が閃き、蟹の甲殻が鮮やかに削ぎ落とされる。
現れたのは、大人の胴体ほどもある極太の蟹肉だ。生の時点では半透明で、かすかに青みがかったその肉塊を、マイヤは迷いなく幻の霊火の上へとかざした。
ジュゥゥゥゥゥッ……!!
霊火の純白の熱が蟹肉に触れた瞬間、言葉を失うほどの暴力的な「美味の香り」が厨房全体を支配した。
濃密な甘みと、奥深い磯の香り。そして、溶岩蟹特有の熟成された味噌のような芳醇なコクが、熱によって極限まで引き上げられていく。
霊火の凄まじいところは、これほどの熱量を加えながら、肉の表面を一切焦がさないことだった。熱が肉の内部まで均一に浸透し、半透明だった蟹肉が、みるみるうちに真珠のような艶やかな紅白へと染め上げられていく。
「温度管理、塩分、火の通り……完璧だ。よし、喰いな!!」
数分後。俺とステラ、そしてゴルド料理長の前に、切り分けられた『覇王溶岩蟹の霊火炙り』が、極上の湯気を立てて並べられた。
何もつけず、そのまま一口、熱々にかぶりつく。
「…………ッッ!!」
俺の脳が、理解を拒絶した。
歯を立てた瞬間、ブツンッと弾けるような凄まじい弾力。その直後、閉じ込められていた大量の熱い肉汁が、まるで決壊したダムのように口内を満たした。
美味い。いや、そんな陳腐な言葉では表現できない。
霊火によって一滴の旨味も逃さず火を通された肉は、口の中でほどけるように溶けていくのに、圧倒的な「肉の食べ応え」を主張してくる。噛めば噛むほど、脳が痺れるような甘みと旨味が波のように押し寄せてきた。
「なんて……なんて美味しいの……! 私、今まで食べてきたお肉の中で、間違いなく一番……っ!」
ステラが両手で頬を押さえ、感動のあまりボロボロと涙を流している。
「ハッハッハッ! 凄まじい! 凄まじいぞ、この味は!!」
あの厳格なゴルド料理長でさえ、大声で笑いながら、夢中で二口目、三口目と貪り食っていた。
「……へへっ。どうだ、美味いだろ?」
マイヤは壁にもたれかかりながら、自分では一口も食べず、俺たちが夢中で平らげる姿を心底嬉しそうに見つめていた。
「料理人はな、美味そうに飯を食う客の顔を見るのが、一番の腹ごしらえなんだよ」
黄金の瞳を細め、満足げに笑うマイヤ。
ドワーフの厳格な料理長に認められ、伝説の霊火で究極の食材を調理する。
死線の果てに、彼女は料理人としての一つの頂に、確かに到達したのだった。




