第57話 灼熱の死闘
ゴルド料理長との約束を取り付けた俺たちは、ドワーフの街の最下層――「灼熱のマグマ層」へと通じる古代の昇降機の前に立っていた。
「よーし、任せてマイヤさん! カニの装甲なんて、私の限界突破の氷魔法で一気にカチコチにしてヒビを入れてあげる!」
ステラが樫の杖を振り回し、準備運動をしている。俺も、市場で買った鋼の剣の柄を握り直した。
だが、いざ昇降機の鉄格子を開けようとしたその時、ゴルド料理長から渡されていた『聖餐亭の通行証(木札)』がカァッと熱を帯び、昇降機の入り口に分厚い赤い魔力障壁が展開された。
障壁の表面に、ドワーフの古代文字が赤々と浮かび上がる。テオがいないため正確な翻訳はできないが、その強い拒絶の魔力は火を見るより明らかだった。
「……なるほどな。ゴルドのジジイ、最初からこのつもりだったか」
マイヤが舌打ちをして、巨大な肉包丁を肩に担ぎ直した。
「このマグマ層は、ただの狩場じゃない。ドワーフの料理人たちが『究極の食材』と命を懸けて一対一で向き合うための、神聖な闘技場ってわけだ。通行証を持ってる一人しか入れない仕組みになってやがる」
「嘘だろ!? じゃあ、ステラの氷魔法のサポートなしで、あのミスリルより硬いカニを相手にするってのか!?」
俺が焦って障壁を叩くが、炎のように熱い壁に弾き返されるだけだった。
マイヤは少しだけ悔しそうに笑った後、ふっと表情を、一切の妥協を許さない「料理人の顔」へと切り替えた。
「……まあ、いいさ。テオの奴は今頃、廃棄層のド真ん中でたった一人で試練に挑んでるんだ。私が手伝い(スーシェフ)の力を借りて食材を調達したんじゃ、格好がつかないからな」
「マイヤさん……気を付けてね。絶対に無理しないで」
ステラの震える声を背に受け、マイヤは一人、昇降機へと乗り込んだ。
「安心しな! 極上のカニ肉、必ず持ち帰ってやる!」
ガシャン、と重い鉄格子が閉まり、昇降機が暗い地底の奥深くへと下っていく。一人取り残された空間で、マイヤは巨大包丁の柄を強く、ひどく強く握りしめた。
――熱い、という次元ではなかった。
マグマ層に降り立った瞬間、マイヤの肺の奥が焼け焦げるような激痛を訴えた。廃棄層で使った耐熱軟膏を塗っていなければ、数秒で血液が沸騰し、皮膚が炭化していただろう。
赤茶けた広大な地下空洞。岩肌を縫うように、ドロドロに溶けたオレンジ色のマグマが脈打つ大河となって流れ、絶え間なく有毒な火山ガスと硫黄の匂いを撒き散らしている。
息を吸うだけで喉が焼け、全身から噴き出した汗は一瞬で気化して白い蒸気となる。立っているだけで体力がゴリゴリと削られていく、文字通りの地獄だった。
「……こんな劣悪な厨房は、スラムの裏路地以来だね」
マイヤが油断なく周囲を見渡した、その時だった。
ゴボァァァァッ!!
数十メートル先の巨大なマグマの池が、山が隆起するように大きく盛り上がった。
吹き荒れる熱風と共に姿を現したのは、マイヤの想像を絶する巨体だった。
【覇王溶岩蟹】。
見上げるほどのその体高は、王都の城門すら凌駕している。強固な甲殻には、赤黒くドロリとした特殊な溶岩の泥が何層にも渡って分厚くコーティングされており、焦げた大豆のような独特で芳醇な香りを放っていた。
そして、マイヤの巨体をも一飲みにできそうなほど巨大な右のハサミが、岩盤を豆腐のように握り潰しながらゆっくりと持ち上げられた。
「ハッ、いい匂いじゃねぇか。極上の出汁が出そうだ」
マイヤは強がりを口にしながらも、全身の毛穴が粟立つのを感じていた。圧倒的な質量と、暴力的なまでの熱量。
(ステラの氷結魔法があれば、一瞬でヒビを入れられたんだがな……!)
そんな弱音を振り払うように、マイヤは地を蹴った。
「まずはご挨拶だッ!」
全身のバネを使い、マグマの熱を切り裂いて大跳躍。狙うは、蟹の右ハサミの関節部分。自重以上の重さがある黒鉄の巨大包丁を、大上段から脳天を割る勢いで振り下ろす。
ガキィィィンッ!!!
鼓膜が破れそうな甲高い金属音が、地下空洞に響き渡った。
「ぐぅぅっ……!?」
マイヤの顔が苦痛に歪む。肉を断つ感触など微塵もない。巨大包丁は赤黒い溶岩泥の層に絡め取られ、その下のミスリル級の甲殻に弾き返された。凄まじい反作用の衝撃が両腕を伝い、肩の関節が外れそうになる。
(硬ぇ……! なんだこの泥、物理的な衝撃を完璧に吸収してやがる!)
驚愕する間もなく、覇王溶岩蟹の左ハサミがマイヤを薙ぎ払うべく迫る。
間一髪で後方に跳躍して躱すが、ハサミが空気を切る風圧だけで暴風雨のようにマグマの飛沫が降り注ぎ、マイヤの革エプロンの一部をジュワッと焦がした。
「チィッ……!」
マイヤは着地と同時に距離を取り、荒い息を吐いた。
まともに斬り合えば、数合でこちらの腕が砕けるか、体力が尽きて焼き尽くされる。剣士のルシアでも、魔法使いのステラでもない。マイヤにあるのは「腕力」と、スラムから這い上がってきた料理人としての「知恵」だけだ。
(落ち着け。相手がどれだけ巨大で硬かろうが、ここは私の厨房だ。……料理人は、どうやって硬い食材を調理する?)
マイヤはマグマの照り返しから目を細め、周囲の過酷な地形を素早く、そして冷静に観察した。
マグマの川のすぐ横。地殻変動のせいか、岩盤の奥深くに「地下水脈」が通っているらしく、冷たい水気が微かに滲み出ている岩肌があるのを見逃さなかった。
(……熱したフライパンに、冷水をぶちまけたらどうなるか。教えてやるよ!)
マイヤは包丁を下げ、わざと隙だらけの構えを見せて、水脈の滲む岩肌を背にして立った。
『ギ、ギョロロォォォォッ!!』
怒り狂った覇王溶岩蟹が、愚かな獲物を岩盤ごと両断しようと、巨大な右ハサミを限界まで振り上げる。ハサミの表面を覆う溶岩泥が、最高潮の熱を帯びて白く発光した。
「来い……! もっと熱を持て……!」
マイヤは逃げない。一歩間違えればミンチになる恐怖をねじ伏せ、ギリギリまで蟹を引きつける。
振り下ろされる絶望の質量。
マイヤの頭上に巨大な影が落ちた、その刹那。
「そこだァァァッ!!」
マイヤは限界の速度で横へ転がり込んだ。
ズドォォォォンッ!!!という地鳴りと共に、蟹の超高熱の右ハサミが、マイヤの背後にあった水脈の岩肌に深々と突き刺さった。岩が砕け、内部に溜まっていた大量の地下水が滝のように噴き出す。
だが、これだけでは足りない。
マイヤは懐から、廃棄層へ行く前に市場で買っておいた「冷却作用を持つ魔鉱石の粉末」を鷲掴みにし、噴き出した地下水と、蟹の超高熱のハサミの接触面に向かって全力で投げつけた。
「温度管理こそ、調理の基本だ!!」
ズガァァァァァァァァンッ!!!!!
先ほどの衝突音とは比べ物にならない、大気を揺るがす大爆発が巻き起こった。
急激な温度差による、極大の「水蒸気爆発」。
「ギ、ギャァァァァァァッ!?」
超高熱から一気に絶対零度に近い冷却を受けたことで、物理攻撃を無効化していた赤黒い泥の層がガラスのように砕け散り、その下にあったミスリルよりも硬かった蟹の右ハサミの甲殻が、パリパリパリッ!と音を立てて無残にひび割れていく。
爆風と白い蒸気が視界を覆う中、マイヤはすでに宙を舞っていた。
両腕の筋肉がはち切れんばかりに膨張し、黒鉄の巨大包丁が、ひび割れた右ハサミの関節部分――唯一柔らかい殻の隙間へと、吸い込まれるように迫る。
「下ごしらえは、終わりだァァァッ!!」
渾身の力と共に振り下ろされた包丁が、ついに硬い甲殻を突破し、中の分厚い肉を断ち切る確かな感触がマイヤの両手に伝わった。
ザシュゥゥゥッ!!
鮮血の代わりに、芳醇な香りを放つ透明な肉汁が弾け飛ぶ。
蟹の巨体から、極上の肉が詰まった巨大な右ハサミが綺麗に切断され、ドスッと重い音を立てて岩盤に転がった。
右のハサミを失った覇王溶岩蟹は、これ以上の戦闘は不可能と悟ったのか、悲鳴のような泡を吹きながら、慌ててマグマの池の底へと逃げ帰っていった。
「ハァ……ッ、ハァ……ッ……!!」
マイヤは膝から崩れ落ち、包丁を杖代わりにして荒い息を吐いた。
全身は火傷と打撲だらけで、立っているのもやっとの状態だ。だが、その黄金の瞳は、足元に転がる自分の背丈ほどもある巨大な「極上の食材」を見つめ、歓喜に震えていた。
「……ふぅ。一丁あがり、だ」
仲間がいない状況だからこそ証明できた、彼女の料理人としての意地と、泥臭い執念の勝利だった。




