第56話 幻の霊火
廃棄層の淀んだ空気から抜け出し、再び活気に満ちた「鉄床通り」へと戻ってきた俺たちは、大きく深呼吸をした。
「ぷはぁっ! やっぱ上の空気は美味いね!」
マイヤが巨大な肉包丁を肩に担ぎ直し、首をボキボキと鳴らす。
「テオくん、大丈夫かな……」
ステラが心配そうに足元(地下)を見つめたが、俺は彼女の肩をポンと叩いた。
「あいつなら大丈夫さ。最後に笑ったあのバルゴの顔……テオのことを完全に『職人』として認めてた。二週間後、とんでもない盾と剣ができあがってくるはずだ」
「ああ、そうさ! だから私たちも、この二週間を無駄にするわけにはいかない!」
マイヤが黄金の瞳をギラリと輝かせ、ドワーフの街のさらに上層――巨大な赤レンガの煙突が密集するエリアを指差した。
「さあ、行くぞ兄ちゃん、ステラ! 私がこの雪山を越えてきた最大の目的……『幻の霊火』を拝みに行く時間だ!」
俺たちはマイヤに引きずられるようにして、街の中心部にそびえ立つ巨大な円形闘技場のような建物、『大釜の聖餐亭』へと足を運んだ。
そこは単なる酒場ではなく、ドワーフ王国における「食の最高峰」が集う場所だった。
入り口をくぐると、これまでの荒々しい鉄の匂いとは打って変わり、極上の香辛料と、何日も煮込まれた肉の芳醇な香りが脳を直接殴りつけてくる。
そして、その厨房の最奥。分厚い耐熱ガラスの向こう側に、そいつはあった。
マグマの赤でも、バルゴの工房の紫でもない。
一切の不純物を持たない、透き通るような「純白の炎」。
チロチロと静かに燃えているだけなのに、離れている俺たちの肌がヒリつくほどの圧倒的な熱量と、神聖な魔力を放っていた。
「あれが……幻の霊火。どんなに硬い魔物の肉も一瞬で旨味を閉じ込め、決して焦がすことなく中まで完璧に火を通すっていう、伝説の熱源……!」
マイヤの口元が、歓喜に震えている。
「おいおい、どこの田舎モンかと思えば、人間の小娘じゃねぇか。ヨダレを垂らして霊火を見つめるたぁ、百年早いぜ」
ズシンッ、と地響きを立てて現れたのは、熊のように巨大なドワーフの男だった。
真っ白なコックコートを着込み、背中には大盾のような巨大なフライパンを背負っている。顔には無数の火傷の痕があり、その威圧感は熟練の戦士のそれに等しかった。
「私はこの聖餐亭の料理長、ゴルドだ。悪いが、この霊火はドワーフの王族か、それに連なる大宴会でしか火を入れねぇ。人間ごときに使わせる炎はないぞ」
ゴルドが鼻を鳴らして見下ろすと、マイヤは不敵な笑みを浮かべ、自分の身の丈ほどある黒鉄の肉包丁を床にドンッ!と突き立てた。
「料理長さんよぉ。料理人が一番興奮するのは、誰に食わせるかじゃない。『極上の食材』を目の前にした時だろ?」
「……なんだと?」
「私が、このドワーフの国でも誰も狩ったことのないような、とびっきりの『極上食材』を丸ごと生け捕りにして持ってきたら……その霊火で、私に調理させろ」
マイヤの挑発に、厨房にいた数十人のドワーフの料理人たちが息を呑んだ。
ゴルドはマイヤの黄金の目と、刃こぼれ一つない凶悪な肉包丁をじっと見つめ返し――やがて、ニヤリと凶暴な笑みを浮かべた。
「……ハッ。言うじゃねぇか、人間の小娘。いいだろう、その度胸に免じて条件を出してやる」
ゴルドは腕を組み、地の底から響くような声で告げた。
「この地下王国のさらに下、『灼熱のマグマ層』に生息するバケモノ……【覇王溶岩蟹】だ」
「溶岩蟹……!」
「ああ。全身が超高熱のマグマの甲殻で覆われていて、下手に近づけば火ダルマだ。おまけに装甲はミスリルより硬ぇ。だが……そのハサミの中の肉は、この世の物とは思えねぇほど甘く、濃厚で、霊火で炙れば天にも昇る味がすると言われている」
ゴルドは巨大なフライパンを指先で叩いた。
「過去に何人もの腕利き狩人が挑んで、炭屑になって帰ってきた。二週間の間に、そいつの『右の特大ハサミ』を鮮度を保ったまま叩き切って持ってこれるなら……この霊火、好きに使わせてやるよ!」
「交渉成立だ」
マイヤは即答し、俺とステラを振り返った。
「聞いたな、二人とも。テオが工房で頑張ってる間、私たちは『カニ漁』だ! 極上のカニ肉食わせてやるから、手伝えよ!」
「いや、手伝えって……相手はマグマに住んでるミスリルより硬いカニだろ!?」
「面白そう! 私、氷魔法でしっかりサポートするね!」
呆れる俺をよそに、ステラは完全にマイヤの勢いに乗せられて目を輝かせていた。
こうして俺たちは、テオの帰還を待つ二週間の間に、地下王国の最深部で命がけの「食材調達」に挑むことになったのだった。




