第43話 極寒の死闘
北の霊峰に足を踏み入れて数日。俺たちは、想像を絶する大自然の猛威に直面していた。
吹き荒れる猛吹雪が体温を奪い、視界は数メートル先すら白い闇に閉ざされている。
「ルシアくん、前方に巨大な熱源反応!……来るよ!」
ステラの悲痛な叫びと同時、分厚い雪煙を暴力的に突き破って、巨大な影が姿を現した。
北の凶獣、「白銀刃熊」だ。
後ろ足で立ち上がったその体長は、優に五メートルを超える。小さな家屋ほどもある巨体は、雪景色に溶け込むような純白の剛毛に覆われていたが、その首から背中、そして太々しい両腕にかけては、青白く透き通った巨大な氷の結晶が、まるで天然の鎧のようにびっしりと群生していた。
血走った真紅の双眸が、明らかな殺意を持って俺たちを睨み下ろす。
「くそっ!」
俺は咄嗟に身を躱し、ランカの街で急遽調達した鋼の長剣を振り下ろす。
だが――ガキィィンッ!という甲高い音と共に、剣は魔獣の分厚い氷の装甲に弾かれ、半ばから無惨にへし折れてしまった。
「ルシアくん!」
テオが叫ぶが、アマルを失った今の彼に魔獣の丸太のような腕の薙ぎ払いを防ぐ盾はない。ステラも猛烈な吹雪に魔力の集束を乱され、決定打となる魔法を撃てずにいた。
折れた剣、機能しない盾、届かない魔法。防戦一方に追い込まれたその時――。
「あーっ! ちょっと待て! 私の極上食材に何勝手に手ぇ出してんだ!」
猛吹雪の風切り音すら切り裂く、よく通る女の声が響いた。
直後、空から巨大な鉄塊――いや、身の丈ほどもある「巨大な肉包丁」が回転しながら飛来し、魔獣の氷の装甲に深々と突き刺さった。
「グァァァァッ!?」
「おら、どけ素人ども! 鮮度が落ちるだろうが!」
雪煙の中から飛び出してきたのは、この極寒の雪山には到底似つかわしくない、燃えるような真紅の髪を無造作な高いポニーテールに結き上げた女性だった。
鋭く吊り上がった黄金色の双眸。長身で、巨大な得物を振るうために鍛え上げられたしなやかな筋肉が、首筋や腕に浮かび上がっている。分厚い毛皮のコートを前開きのまま羽織り、その下には耐熱性と機能性を重視した赤茶色の革エプロンを身につけていた。
彼女は魔獣に突き刺さった全長二メートル近い黒鉄の肉包丁の柄を掴むと、そのまま強引に引き抜き、鮮やかな身のこなしで距離を取る。
「おい兄ちゃん! 武器がねぇなら体張って隙を作れ! ほら、これ食いな!」
彼女は俺に向かって、泥団子のような黒い丸薬を放り投げた。
「食えって……これを!?」
「戦闘用の特製スパイス玉だ! ガタガタ言ってないで噛み砕け!」
俺は意を決してその黒い玉を口に放り込み、ガリッと噛み砕いた。
――次の瞬間、言語を絶する強烈な苦みと、舌が焼け焦げるような辛味が口内で爆発した。
「ッ〜〜〜〜〜!? ぐ、ごふっ、まず……!!」
あまりの不味さに嘔吐しそうになる。だが、それを飲み込んだ瞬間、胃袋からカッと異常な熱が広がり、凍えきっていた四肢の毛細血管の隅々にまで力が漲っていくのを感じた。
完全に痛みが消えるわけではない。だが、冷気による感覚の麻痺や筋肉の軋むような痛みがフッと「軽減」され、身体が驚くほど軽く動く。
(これならいける……!)
「いくぞ!」
俺は痛みが引いた身体をバネにし、折れた鋼の剣を握り直して魔獣の懐へと飛び込んだ。
俺が囮になって魔獣の巨大な爪を躱し、彼女の黒鉄の包丁が氷の装甲を粉砕する。むき出しになった肉の隙間に、ステラが圧縮した炎魔法を正確に叩き込んだ。
「よし、下ごしらえ完了だ!」
彼女の大上段からの唐竹割りが、魔獣の急所を的確に両断した。
ドドォォォン……!
地響きを立てて沈む巨大な魔獣。
戦闘が終わると同時に、俺は雪の上に四つん這いになり、口の中に残る最悪の風味に悶絶した。
「おえぇ……なんだよ、あの泥団子。不味すぎる……」
「失礼な奴だな。ドワーフの秘薬と魔物の血肉を練り込んだ『気付け薬』だ。痛みが散って動きやすくなったろ?」
彼女は真紅のポニーテールを揺らし、巨大包丁の血を払いながら豪快に笑う。
それから数時間後。吹雪を避けて見つけた洞窟の中で、俺たちは温かい火を囲んでいた。
鍋からは、今まで嗅いだことのないような、食欲を暴力的に刺激する凄まじくいい匂いが漂っている。
「ほれ、白銀刃熊の極上煮込みだ。食いな」
彼女――マイヤと名乗った料理人が、木の器を差し出してくる。
あの殺人的に不味いスパイス玉の記憶があり、俺たちは恐る恐る口をつけた。
「…………っ!!」
俺も、ステラも、テオも、目を見開いた。
極寒で冷え切った身体に染み渡る、濃厚で深みのあるスープ。魔物の肉とは思えないほどホロホロに崩れる柔らかさと、完璧な塩加減。
美味い。今まで生きてきた中で、間違いなく一番美味い。
「おいおい、黙り込んでどうした? まあ、私が本気で作った普通のメシは、死ぬほど美味いからな!」
マイヤは自慢げにふんぞり返り、得意げに鼻を鳴らした。
「マイヤ……あんた、北のドワーフの秘境を目指してるのか?」
「ああ。あそこの連中が使う『幻の霊火』ってやつで、一度最高の肉を焼いてみたくてな。お前らも行くなら、案内とメシの面倒は見てやる。代わりに、強そうな魔物が出たら狩るのを手伝え。取引成立だろ?」
戦闘では劇薬で的確なバフをこなし、平時は極上の料理で癒やしを提供する。
俺たちの過酷な北への旅路に、最高で最凶の「魔境の料理人」という、これ以上ないほど頼もしい仲間が加わったのだった。




