第33話 生贄の目覚め
星無き間を埋め尽くす漆黒の瘴気が、部屋の中央で急速に収束していく。
ドクン、ドクンという巨大な心臓の音が響くたび、空間そのものが歪み、軋み声を上げていた。
やがて、瘴気の渦が晴れた後には、かつて人間だった「何か」が立っていた。
第一魔導騎士団の豪奢な制服は引き裂かれ、黒い鱗と膨れ上がった筋肉に覆われている。頭部からはねじ曲がった二本の角が生え、ガルスの面影を残す顔の右半分は、肉が溶け落ちた禍々しい悪魔の頭蓋へと変貌していた。
「おお……! なんという恐ろしい魔力だ!」
俺を実家から追放した父親、レイモン公爵は、その異形を見て歓喜に顔を歪めた。
己の息子が怪物に成り果てたというのに、彼の目にあるのは強力な兵器を手に入れた狂信だけだった。
「やれ、ガルス! お前の憎き弟を、その力で肉片に変えてしまえ! 私が、この国のトップとして、お前の主として命ずる!」
父親が高らかに叫ぶ。
だが、悪魔と化したガルスは、俺の方を向いてはいなかった。
血走った隻眼が、ゆっくりと、己を地下牢に繋ぎ、使い捨ての爆弾として見捨てた実の父親へと向けられる。
「……シュ……ジ……? ……チチ、ウエ……?」
人間の声と、地の底から響くような獣の唸り声が二重に重なった、おぞましい声。
ガルスの脳裏には、部下に裏切られた絶望と、父親の偽りの優しさに縋った自分の惨めな姿が焼き付いていたのだろう。
悪魔の瞳に、純粋な『殺意』が灯った。
「な、何を……」
父親が怪訝な顔をした次の瞬間、ガルスはその場から掻き消えた。
ドゴォォォッ!!
鈍い破裂音。
気づいた時、ガルスの巨大な黒い腕は、レイモン公爵の腹部をいとも容易く貫通していた。
「が、はっ……!? き、さま……私は、お前の……!」
「ウル……サイ……! ゴミ、ガァァァッ!!」
ガルスが腕を無造作に振り払うと、この国の軍事を牛耳っていた絶対的な権力者は、虫ケラのように壁に叩きつけられ、二度と動かなくなった。
悲鳴を上げる間すらない、あまりにもあっけない最期だった。
「ひ、ひぃぃぃっ!! 悪魔が暴走したぞ!!」
「神よ、我らをお守りください! 『絶対聖域』!!」
狂乱した宰相が床を這いずって逃げようとし、教皇が震える手で杖を掲げて最高位の防御結界を展開する。
眩い光の壁が教皇と宰相を包み込んだ。どんな大魔法も弾き返す、国家最高峰の絶対防壁。
だが、悪魔の理不尽な暴力の前では、そんなものは薄紙以下の価値しかなかった。
ガルスが一歩踏み込み、ただ腕を振るう。
それだけで、教皇の絶対防壁はガラスのように粉々に砕け散った。
「ば、馬鹿な……神の、加護が……あぎゃああああっ!!」
神聖な法衣ごと、教皇の上半身が不可視の魔力で捻り潰される。
残された宰相は、血の海と化した床の上で、失禁しながらガルスにすがりついた。
「ま、待ってくれ! 殺さないでくれ! 金ならいくらでもやる! この国の半分を貴様に……!」
ガルスは答えない。
ただ、その巨大な足で、命乞いをする枯れ木のような宰相の頭を無慈悲に踏み砕いた。
わずか数十秒。
この国の歴史を裏で操り、私欲のために無実の民を地獄へ突き落とそうとした三人の最高権力者たちは、自分たちが生み出した怪物によって、文字通り「肉片」へと変えられた。
俺は黒狼を構えたまま、その凄惨な光景を冷ややかな目で見つめていた。
「……自業自得とはいえ、胸糞悪い最期だな」
後ろでテオが顔を覆い、ステラが青ざめた顔で杖を握り直す。
腐敗した王国のトップは消え去った。
だが、事態は何も解決していない。
「グルルルル……ルゥゥ……ルシアァァァァッ!!」
復讐の第一段階を終えた悪魔ガルスが、ついにその血塗られた瞳を俺たちへと向けた。
地下室全体が揺れるほどの、鼓膜を破る凄まじい咆哮。
部屋に充満する瘴気が、刃のように鋭く肌を刺す。
「テオ、アマル! 防御を最大に保て! ステラは俺の背後から絶対に離れるな!」
「分かったよ!」
「ルシアくんも、気をつけて……!」
腐敗の終焉は、真の絶望の始まりに過ぎなかった。
理性を失い、純粋な破壊衝動の塊となった最凶の悪魔との死闘が、今、幕を開ける。




