7生 ep.25
同盟との停戦交渉のテーブル。それは平和を模索する場などではなく、勝者が敗者を、あるいは強者が弱者を効率よく解体するための「まな板」に過ぎなかった。 装飾過多な会議室。窓の外には広大な領土が広がっているが、室内に漂うのは硝煙の臭いすら掻き消すような、冷徹な「現実」という名の暴力だった。
リューコフは、重厚な革張りの椅子に深く沈んでいた。
数日前まで「革命の旗手」として民衆の熱狂を背負っていたその双肩は、今や見る影もなく力なく垂れ下がっている。
自分の手で同志を始末したあの不快な感触が、まだ掌に残っているようだった。
「……我々としては、別に停戦を望んでいるわけではありません。交渉が不成立なら、このまま戦争を続行しても構いませんよ?」
同盟側の全権大使――軍事費に国家予算を極振りした、あの狂信的な国を代表する男が、優雅に葉巻を燻らせながら言い放った。
男が吐き出した紫煙が、リューコフの視界を不透明に染める。
大使の背後には、交渉を有利に進めるための物理的な暴力――国境沿いで足踏みをする重戦車軍団の「軍靴の音」が控えている。
彼らにとって、この会議はただの事務手続きに過ぎない。
目の前の男をどう屈服させ、どれだけの領土と資源を毟り取るか。
その「算盤」を弾く音だけが、リューコフの耳に不気味に響いていた。
「……条件を。……何が望みだ」
リューコフは、絞り出すような声で言った。
彼は理解していた。
このテーブルの下で、自分たちの命脈を握っているのは目の前の大使ですらない。
ここにはいないはずの、あの「十三歳の魔女」の意思が、この冷たい空気の中に溶け込んでいることを。
「リューコフ様! タジフ山脈に同盟軍の大部隊が確認されました。首都の目と鼻の先です!」
伝令の叫びが会議室に突き刺さる。
リューコフの顔が、焦燥と屈辱で激しく歪んだ。
「なに……? 奴ら、停戦交渉中だというのに軍を動かしているのか!?」
「おや、心外ですね」
同盟側の全権大使は、冷笑を浮かべたまま葉巻の灰を落とした。
その所作一つ一つが、目の前の男を「交渉相手」ではなく「処理待ちの残務」として扱っていることを雄弁に物語っている。
「軍の移動は、平和維持のための防衛的措置に過ぎませんよ。さて、次は戦時賠償金についての話ですが……」
「賠償金だと!? そんな話、事前に提示された条件にはなかったはずだ!」
「ええ、ですから今、この場で提示させていただいています。平和には、相応の対価が必要ですから。戦争の継続には金がかかるのですよ、リューコフ閣下」
突きつけられた書類の天文学的な数字。
それは一国の財政規模を遥かに超え、数世代にわたって国民の血を絞り続けなければ支払えない額だった。リューコフの視界が、絶望で明滅する。
「さらに、こちらの地図をご覧ください。この貴国西部全域の領地割譲についても、ご了解いただく必要があります」
「リューコフ様! 西部戦線からも敵の増援がこちらへ向かっていると報告が……!」
ただの革命軍の頭領に過ぎなかったリューコフは、純粋に信じていたのだ。
自分が武器を置き、対話を求めれば、戦火は止まると。
だが、現実は残酷だった。 同盟軍は熟知していたのだ。
リューコフという男が、国内の「戦い疲れた民衆」の支持によって支えられた、脆いポピュリズムの権化であることを。
彼には「戦い続ける」という選択肢が最初から存在しない。
ならば、その平和という名の商品を、骨までしゃぶるような高値で売りつけるのは、強者の外交として当然の帰結だった。
リューコフの掌には、かつて同志をその手で葬った時のような、ねっとりとした死の感触が蘇っていた。
目の前の机に広げられているのは、単なる停戦合意書ではない。
それは、かつてニコライが己の命と引き換えに死守しようとした防衛線――そして、この国に生きる数百万の国民の未来そのものを、他国へ献上するための「売国状」であった。
「……っ」
喉の奥で、獣のような呻きが漏れる。
ペン先が紙を削る音は、まるで自分という人間の魂が削り取られる音のようだった。
一国の財政を数世代に渡って縛り付ける賠償金。
資源豊かな西部領土の割譲。
それは、今日から始まる新たな「地獄」への招待状に他ならない。
外交的な完敗。
それは、自らの「善意」と「理想」を盾にしたツケを、最も守りたかったはずの民衆の血で支払わせる行為だった。
「署名、承りました。賢明な判断ですよ、リューコフ閣下」
同盟の大使は、満足げに書類を回収すると、吐き出した煙をリューコフの顔に浴びせた。
「英雄」の称号は、今この瞬間をもって「大陸最大の裏切り者」へと書き換えられた。
窓の外で、平和を信じて祝杯を挙げようとしている民衆はまだ知らない。
自分たちが手に入れたのは平和ではなく、魔女と強国によって徹底的に管理された、巨大な「収容所」への入居権だということを。
邸宅のバルコニーで、エンヴァは遠くの空を見つめていた。
その「眼」は、宮殿で行われている無様な取引のすべてを克明に映し出している。
「あらあら……。ニコライが血を吐きながら守り抜いた最後の線を、あんなに呆気なく明け渡してしまうのね」
ハァ、と深い溜息が漏れる。
それは英雄への同情ではなく、ただただ非効率な采配への呆れだった。
「これで同盟軍との戦いは一応終わるけれど……。代わりに差し出したものが多すぎるわ。領土、資金、そして――国民の自尊心」
エンヴァは脳内の算盤を弾く。
割譲された領土からの避難民。
賠償金支払いのための重税。
そして、広大な西部農地の喪失による決定的な食糧不足。
「見積もりは……そうね。これから発生する飢餓による死者は、100万人程度かしら」
銀髪を風になびかせ、少女は残酷な数字を平然と呟いた。
「ニコライは『正義』のために死に、リューコフは『平和』のために国を殺したわ」
エンヴァは見たくも無いテレビ番組を消すかのように霧の千里眼を閉じた。




