7生 ep.23
「これは万民のものだ! 独占を許すな!」
鋼鉄の咆哮が響く大陸の裏側で、帝都の倉庫街は地獄の窯の底と化していた。
かつてエンヴァの忠実な「盾」であったはずのリューコフ率いる『コミューン』。
彼らが掲げた正義の旗は、ついにその創造主である魔女の喉元へと向けられた。
「倉庫を襲え! 魔女を見つけたら射殺せよ! この国を我らの手に取り戻すのだ!」
狂熱に浮かされた革命軍の叫びが、夜の帝都にこだまする。
リューコフたち上層部が撒いた「勝てば腹いっぱい食える」という甘い毒は、飢えた兵士たちを瞬く間に略奪の獣へと変えていた。
次々と繰り出される兵士たちの群れ。
重厚な大砲が倉庫の鉄扉に狙いを定め、火を噴こうとしたその瞬間――。
「そう、今日なのね。よほどお腹が空いていたのね、可哀想に」
霧の向こうから、鈴を転がすような、冷ややかな声が響いた。
エンヴァは、最初からすべてを知っていた。彼女が街に張り巡らせた「霧」という名の神経網は、リューコフの裏切りも、蜂起の秒読みも、すべてを掌の上で転がしていたに過ぎない。
「段取り通りに。……掃除の時間よ」
エンヴァの合図と共に、闇の中から武装した私兵たちが音もなく現れた。
飢えで目が血走り、旧式銃を握り締める革命軍。
対するは、最高級の装備を纏い、魔女のパンで胃袋を完璧に満たした、心身共に「欠けのない」エンヴァの私兵たち。
その差は、もはや戦いと呼べるものではなかった。
「投降せよ! 武器を捨てれば諸君を厚く遇する用意がある!」
カイルの朗々とした声が戦場に響き渡る。
その「慈悲」という名の甘い誘惑に、戦意を喪失した兵士たちが次々と膝をついていく。
だが、それでも逃げ延びようとする者たちの先には、クリフ率いる別働隊が、逃げ場を完全に塞いで待ち構えていた。
「にしても、蜂起の日時までぴったりと当てるとは……。恐ろしいお人だ、全く」
クリフが感嘆とも戦慄とも取れる溜息を漏らす。
城門へとなだれ込む敗残兵たちを待っていたのは、慈悲なき包囲陣。
「――撃て」
クリフの静かな宣告。 半包囲からの無慈悲な一斉射撃が、夜の静寂を切り裂いた。
逃げ惑う革命の夢は、魔女の倉庫を汚すことすら叶わず、冷たい石畳の上に赤い染みとなって広がっていった。
ーー勝てるはずだった。
リューコフらが必勝を期して、血の滲むような思いで何度も、何度も繰り返した軍議。
作戦図を囲み、震える指先でなぞった必勝のルート。
それは彼らにとって、暗闇に差した唯一の希望の光だった。
「……この通路を爆破すれば、エンヴァの本拠地まで一直線です。警備の薄いここを突けば、魔女の首に手が届く!」
熱を帯びた声が地下室に響く。
リューコフの側近が拳を叩きつけ、作戦の完遂を誓った。
「なるほど。しかし、事前にこの近辺の住人を避難させておく必要があるのでは……」
「そんなことを言っている場合ではありません! 多少の犠牲は、この国を救うための必要悪です!」
その「極秘」の軍議。
固く閉ざされた扉の向こう、誰もいないはずの空間に、一編の冷ややかな「意識」が漂っていることに、彼らは最後まで気づかなかった。
(……ふーん? 必要悪、ね。自分たちの都合のいい言葉ね)
アジトのソファでくつろぐエンヴァは、目を閉じたまま、まるでラジオのノイズを拾うように彼らの思考をなぞっていた。
隣で控えるカイルに、彼女は退屈そうに唇と指を動かす。
「……お父さま、あの人たち、K1番の通路を爆破するつもりらしいわよ。奥の皮製品の工場の部分」
地図のある一点を指さすエンヴァ。
「ほう、それは一大事でございますな。すぐに手当てをしておきましょう。爆破の瞬間に崩落の角度を調整し、瓦礫で自ら退路を塞ぐように」
カイルは微笑みを崩さず、手帳に淡々とペンを走らせる。
「あと、反乱が始まったらこの橋を落としておきなさい。逃げ道を一つにするの」
「了解しました。その後はいかがいたしましょう?」
「建物に囲まれた広場へ誘導の上、四方から囲んで殺すのよ。……お母さまの耳に銃声が届かないように、なるべく静かな場所でね」
「かしこまりました、エンヴァ様。そのように」
――そして、決起の夜。
轟音と共に通路を爆破し、勝利を確信して突入した革命軍を待っていたのは、行き止まりの壁と、静まり返った広場だった。
背後で橋が落ちる重低音が響いた瞬間、彼らはようやく理解した。
自分たちが書き上げた「必勝のシナリオ」は、最初から魔女が読み聞かせる「おやすみ前の童話」に過ぎなかったのだと。
リューコフの叫びと共に始まった襲撃は、わずか数時間で「清掃」された。
クリフが組織し、エンヴァが最新兵器で武装させた私兵集団は、訓練も満足に受けていない民衆上がりの志願兵を、まるで害虫を駆除するように冷徹に処理していった。
「な! 貴様ら、どこから入った……ッ!」
重厚な石壁と厳重な警備に守られたはずの、革命軍最高司令部。リューコフが必死に再起の策を練っていたその部屋に、エンヴァの私兵たちが音もなく現れた。
「そこの隠し通路からですよ、リューコフ閣下」
隊長格の男が、壁の一部を指差して冷淡に告げた。
そこはリューコフ自身、存在すら知らなかった巧妙な隠し通路。
自分が「城」だと思っていた場所が、魔女にとっては「鳥籠」に過ぎなかったことを突きつけられ、リューコフは膝から力が抜けるのを感じた。
戦力比を見れば、この敗北は「異常」の一言に尽きる。
場外のクリフ率いる援軍を合わせても、エンヴァ側の総兵力は五千にも満たない。
対してリューコフ率いる革命軍は、首都駐留部隊だけで二万を超える大軍勢。
本来なら、数で押し潰せるはずだった。
だが、情報の質――その一点が、天と地ほどの差を生んだ。
革命軍が放つ決死の突撃はすべて空振りに終わり、あざ笑うかのように伏兵の餌食となる。
「敵は背後にいる」と報告があれば、高所から狙撃の雨が降り注ぎ、反撃に転じようとすれば、隣で戦っていた戦友がエンヴァの「甘い囁き」に寝返り、背中から刃を突き立てる。
それは戦争ではなかった。
全ての行動を予見され、内部から腐らされ、ただ屠殺場へと誘導されるだけの「清掃作業」だった。首都のあちこちで同時に発生した戦闘は、そのすべてがエンヴァという名の絶対的な意思によって、彼女の勝利で塗り潰されていったのである。
捕らえられ、冷たいコンクリートに膝をつかされたリューコフの前に、返り血一つ浴びていない真っ白なドレスを翻し、彼女は現れた。
指令室の静寂を切り裂いたのは、英雄気取りの男が吐き出した、あまりに安っぽい自己犠牲の言葉だった。
「……私の首を。私の命でいい、頼むエンヴァ、食料を民に与えてくれ」
床に這いつくばり、死を覚悟したリューコフの悲痛な懇願。
それを聞いた瞬間、エンヴァの唇から漏れたのは、同情でも怒りでもなく、心底退屈そうに鼻で笑う音だった。
「命? 貴方の安っぽい首に、この穀物の山ほどの価値があると思っているの?」
黄金の瞳が、ゴミを見るような冷徹さで男を射抜く。
「とりあえず、私に面倒な事をさせた報いを受けなさい」
――ドシュッ!
言葉の終わりを待たず、エンヴァの細い足がリューコフの顎を跳ね上げた。
鈍い衝撃音と共に、男の頭が背後の石壁に叩きつけられる。
二発、三発、四発、五発。 容赦のない蹂躙。暴力に酔うでもなく、ただ「不快な汚れを払う」ような無機質な動作で、彼女は男の尊厳を物理的に粉砕し続けた。
鮮血が舞い、エンヴァの純白のドレスが、どす黒い赤に染まっていく。
その赤は、魔女の冷酷さを引き立てる残酷な装飾品のように見えた。背後では、主の意志を汲み取った部下たちが、リューコフの側近たちを同様に蹂躙し始めている。
荒い息を吐きながら、エンヴァは血まみれのドレスの裾を一瞥し、虫の息のリューコフを冷たく見下ろした。
「食料? 配ってあげてもいいわよ。私にとっては、貴方たちが必死に狙っていた食糧庫を空にしたところで、倉庫の掃き掃除で出るゴミみたいな量だもの」
リューコフの瞳に、激しい困惑と底知れない屈辱が走る。
自分が命を懸けた「民の救済」は、この少女にとっては掃除のついでに捨てる塵芥に等しい。
魔女の慈悲とは、救いですらない。
だが、少女の声は一瞬で氷点下まで凍りついた。
「ただし。やらかした責任は取ってもらうわ。私の『資産』に怪我を負わせた罪、自ら償いなさい」
エンヴァの指先が命じたのは、死よりも残酷な「生」の儀式だった。
後ろ手に縛られ、跪かされた五人の同志たち。
彼らはリューコフと共に理想を語り、泥を啜り、この革命にすべてを賭けた「同志」であった。
「……彼らを殺しなさい。貴方のその手で」
エンヴァの言葉は、氷の楔となってリューコフの胸を貫く。
「決心できないのかしら? その場合、今日の夕食は小麦ではなく、彼らの肉を野犬に配ることになるわね。……ふふ、お腹を空かせた民衆に配ってあげてもいいけれど?」
「やれ! リューコフ! 俺たちの死を無駄にするな!」
「革命の火を消すな! 俺たちの魂は民衆と共に――!」
殉教者の瞳で叫ぶ二人の若者。かつてニコライを愛したライラのように、その魂を理想という名の炎に捧げようとする狂信的なまでの輝き。
対照的に、残りの三人は、尊厳などとうに捨て去り、獣のような声を上げて床を舐めた。
「やめろ! 死にたくない! 助けてくれ、リューコフ!」
「革命なんてどうでもいい! 忠誠を誓います、エンヴァ様! 何でもしますから……!」
二対三。 理想の叫びと、生の叫びが入り混じる狂気の空間。
リューコフの掌には、重く、冷たいナイフが握らされた。
震える手。
視界を塞ぐ血と涙。
絶叫が喉の奥で潰れ、肉を断つ不快な感触が腕を伝うたび、リューコフという「英雄」の魂は、千々に引き裂かれ、消滅していった。
魔女は、その光景を瞬き一つせず見つめていた。 それはもはや処刑ですらない。
「よくできました。……でも、一つ足りないわね。誰が真の力を持っているのか、その両目があっても見えていないのだから……そんなの、片方あれば十分じゃない」
言葉が終わるより早く、エンヴァの細い指先がリューコフの左目に突き刺さる。
湿った、何かの繊維が千切れる音。
短く、鋭い悲鳴。
エンヴァは、引きちぎった眼球を無造作に放り捨て、踏みつぶす。
そして返り血に濡れた顔で美しく微笑んだ。
「これで、丁度良くなったのではないかしら? ……偏った視界の方が、貴方のような独裁者にはお似合いよ」
眼球を失ったリューコフにエンヴァは続ける。
「おめでとう。貴方は今日、民衆の救世主になったわ。……その代償に、鏡を見るたびに私の顔を思い出す『呪い』をあげたけれど。……嬉しいでしょう?」
数時間後、帝都には信じがたい量の食糧が溢れた。
「リューコフの革命軍が奪い取った成果である」という、エンヴァの署名入りのメッセージと共に。
国民は熱狂し、新しき「隻眼の英雄」を讃えた。
その英雄が、執務室で自らの血と汚れを拭いながら、死人のような目で震えていることも知らずに。
外から響く怒号は、もはや聞き慣れた旋律のようだった。かつて皇帝を追い詰めた際、自分もその旋律の一部だったはずなのに、今はそれが自分の死を望む葬送曲にしか聞こえない。
豪華な装飾が施された宮殿の一室。
ニコライは、もはや自分の居場所ではない玉座の横で、膝を突き、空虚な空間を見つめていた。
「ライラ……。私は、一体何を誤ったというのだ……」
彼は愛した。
この国を、労働者を、そして国民を。
彼らを同盟軍という侵略者から守るため、乏しい資源を絞り出し、最前線に軍を送り込んだ。
それは指導者として、愛国者として、紛れもない「正義」だったはずだ。
だが、国民が求めていたのは、高潔な国防の義務ではなく、今日を生き延びるための糧だった。
彼らは「パンを配ってくれた」リューコフを、新たな神として賛美する。
たとえそのパンが、仲間の血で購われたものだとしても。
「……待て」
思考の霧が、唐突に晴れた。
脳裏をよぎったのは、地下5階で足を組み替え、自分を見下ろしていたあの少女の姿だ。
自分がかつて民衆を扇動し、「盾」にするために配ったあのパン。
あれも、彼女が「ご褒美」と言って手渡してきたものではなかったか。
「……毒餌だ」
震えが、指先から全身へと伝播する。
額から嫌な汗が流れ落ちる。
あれは慈悲ではなかった。
革命を成功させるための支援でもなかった。
自分を、リューコフを、そしてこの国の民すべてを、自らの「庭」で踊らせ、共食いさせるための――ただの撒餌に過ぎなかったのだ。
「エンヴァああああああ! 貴様ああああああああ!」
喉が裂けんばかりの絶叫が、無人の回廊に響き渡った。
憎悪か、それとも己の無力さへの絶望か。
ニコライは震える手で拳銃を引き抜くと、その冷たい銃口を自らのこめかみに強く押し当てた。
「……すまない、ライラ」
乾いた発射音が一つ。
帝都を揺るがした英雄の意識は、真っ暗な闇へと吸い込まれていった。
彼の冷たくなった胸元には、最期まで微笑みを絶やさなかった戦友――ライラの写真を収めたロケットが、血に汚れた手で固く握り締められていた。
「そう、死んだの」
闇からにじみ出るように現れた銀髪の少女。
倒れたショックで床に落ちた革命戦死ライラの写真が入ったロケットを拾いニコライの血まみれの手に戻す。
「……ねえ、知っている? 理想っていうのはね、お腹を空かせた子供には毒にしかならないのよ。貴方はその猛毒を、自分の一番愛する人たちに配り続けてしまった……」
フゥとため息をつくと
「おやすみなさい、英雄様。貴方の革命は、これでおしまい。……次の人生では、誰かのために死ぬなんて馬鹿なことはやめて、もう少し身の程にあった小さな人間として生まれてくるといいわ」
そう言い残すと、銀髪の少女はだんだんと闇に同化するようにその姿を消した。




