7生 ep.22
都の夜空は、政府庁舎を囲む数万の松明によって、不気味な赤色に染まっていた。
かつて皇帝を追い詰めた怒号は、今、その矛先をニコライへと変え、執務室の窓ガラスを絶え間なく震わせている。
「頼む……エンヴァ。リューコフを、あいつだけでも殺してくれ。今の民衆は狂っている、あいつさえいなくなれば、私はまだ……!」
かつて高潔な理想を掲げ、大陸の夜明けを夢見た革命家ニコライ。
その男が今、十二歳の少女の足元に縋り付き、なりふり構わぬ暗殺の依頼を口にしていた。
その瞳にはもはや理性の光はなく、ただ「権力」という名の麻薬が切れた者の、浅ましい渇望だけが張り付いている。
エンヴァは、差し出された男の震える手を、汚物でも見るかのような冷徹な視線で一瞥した。
「断るわ。……そんなことをして、私に何の見返りがあるのかしら?」
「金ならいくらでも出す! 秘密裏にプールしていた政府の予備費を――」
「お金? さっきも言ったけれど、そんな紙切れに価値があると思っているのは、貴方の政府の中だけよ」
エンヴァは冷たく鼻で笑い、窓の外で揺れるリューコフの「赤い旗」を眺めた。
ニコライは、もはや自分のプライドすらも粉々に砕き、最後の、そして最悪のカードを差し出した。
「な、なら……この国を、皇帝の座を君に譲ろう! 君がこの国の頂点に立つんだ! 私がそのための道筋を整える、だから――!」
「皇帝?」
その言葉が出た瞬間、部屋の空気が凍りついた。
エンヴァは、椅子をゆっくりと回し、ニコライの顔を真っ正面から見据えた。
「貴方、私を誰だと思っているの? 私が欲しいのは、そんな血生臭くて、責任ばかり重くて、お母さまと過ごす時間を奪うだけの『椅子のガラクタ』だとでも?」
エンヴァは立ち上がると、まるでおもちゃを片付けるような無造作な動作で、ニコライが差し出した「権力」の象徴――机の上の印章を、床へと蹴り飛ばした。
「いらないわよ、そんなもの。貴方が守り抜いたその玉座、私にとっては、お母さまが焼いてくれたクッキーを乗せるお皿一枚ほどの価値もないわ」
床に転がる印章を冷淡に見下ろし、エンヴァは出口へと歩き出す。
「せいぜい、最後まで自分の選んだ『革命』の末路を特等席で楽しみなさい。ニコライ。貴方は『王』になりたかったのかもしれないけれど、私は『普通の女の子』になりたいの」
「飢えた兵が勝った試しなどない」 古今東西、戦場の鉄則とされてきたその言葉は、残酷なまでの正確さで臨時政府軍を打ちのめした。
同盟軍との決戦に挑んだ臨時政府軍は、敵の弾丸を受けるより先に、自らの空腹に膝を屈した。大敗、そして潰走。戦線は紙切れのように引き裂かれた。
「それ見たことか! 国民よ、臨時政府は舵取りを誤ったのだ!」
戦場から生還したボロ布のような兵士たちの姿に、リューコフの声が帝都の広場に響き渡る。
「即時停戦を! 臨時政府はこれ以上、国民を無益な戦場へ送り出すな!」
その扇動に、民衆の怒りが呼応する。
広場を埋め尽くした数万の叫びは、もはや一つの巨大な地鳴りとなっていた。
対するニコライは、政府庁舎のバルコニーに立ち、血を吐くような思いで言葉を紡ぐ。
「……今が、我慢の時だ! ここで大局を見失えば、この国はより悲惨な状況になりかねない! 国際協調の枠組みを崩してはならないんだ!」
だが、その「正論」は、風に舞う塵ほども民衆の心に届かない。
「うるさい! そんなことを言うなら、その『協調』している国からパンの一つでも貰ってこい!」 「そうだ! 条約は腹を満たさない! 法律は喉を潤さないぞ!」
野次と怒号。
かつてはニコライの言葉に酔いしれた民衆は、今や彼が口を開くたびに殺意を剥き出しにする。
彼らの瞳に映るのは、平和を説く指導者ではなく、子供の口から最後の一片を奪い取り、空虚な「未来」と引き換えにした詐欺師の姿だった。
ニコライは、自分の足元で煮えくり返る「自分たちが育てた暴力」を見つめ、ただ立ち尽くした。
世界大戦の火蓋が切られてから、食糧の相場は垂直に跳ね上がり、これまでの5倍を記録した。
かつての「西の穀倉地帯」だけでは魔女の渇きを潤すには足りず、その触手は西の共和国にまで伸びていた。
「予算は無制限で構わないわ。クリフ、共和国でもどこでも買えるだけ買ってきなさい。世界から『明日』という言葉を買い占めてしまうくらいにね」
エンヴァの冷徹な指令を背に受けたクリフの働きは、もはや商人の域を越えていた。
「クリフ、そんなに驚かないで。戦争っていうのはね、一番高い値をつけた人が最後に勝つオークションなのよ。……私たちはただ、競合相手を全員破産させているだけ」
「はい、エンヴァ様の言わんとしている事は解ります」
彼はエンヴァから供与された最新式の火器と、湯水のように溢れる資金を使い、独自の私兵組織を構築。
交渉に応じぬ豪商があれば、翌朝にはその屋敷ごと「市場から退場」させた。
クリフの通った後には、黄金の輝きと、硝煙の匂い、そして空っぽの倉庫だけが残る。
彼はエンヴァと同様、多くの地下拠点を移動し足取りを掴ませない。
この事態に最も翻弄されたのは、同盟軍側であった。
彼らが頼みとする食糧供給網は、クリフの暴力的な買い占めによってずたずたに引き裂かれていたからだ。
対する協商連合軍側には、かつてエンヴァと交流のあったレオン王子の「島国」、そして海の向こうに鎮座する超大国という強固な背後盾が存在した。
彼らが連合軍の腹を満たす役割を担うことで、戦線は奇妙な不均衡を生み出していく。
その狭間で、ニコライ率いる臨時政府軍は、泥沼の戦場に取り残されていた。
同盟軍の激烈な抵抗を前にして、食糧も、弾薬も、そして兵士の士気も底を突いた彼らは、勝利という名の果実を一度も手にすることなく、歴史の表舞台から急速にその存在感を失いつつあった。




