7生 ep.16
帝都の空を裂いた、あの凄惨な「逆さの磔刑」。
街中がその呪わしい噂でもちきりになり、人々が恐怖に震える中、その元凶である少女は、世界で最も穏やかな場所にいた。
「……本当に、ひどい事件ね。大聖堂にそんな、恐ろしいものが吊るされるなんて」
夕食を終えた後の寝室。リーリャは窓の外、遠くに見える大聖堂の影を怯えたように見つめ、その細い肩を震わせていた。
リーリャのような清廉な事務員にとって、この街に蔓延る暴力は理解の範疇を超えた毒でしかない。
「ママ……! 怖い、怖いよぉ……!」
その時、エンヴァが泣き出しそうな声でリーリャの腰に抱きついた。
さきほどまで冷徹な筆致で、次なる暗殺対象のリストにサインをしていたその手が、今は震える子供のように母の衣を掴んでいる。
「ああ、ごめんなさい、エンヴァ。怖かったわね……。大丈夫、大丈夫だからね。ママがここにいるわ」
リーリャは慌てて娘を抱き上げ、柔らかなベッドの上でその小さな体を包み込んだ。
「よしよし」と、壊れ物を扱うように優しく、一定のリズムでエンヴァの背中を撫でる。
(……温かい。そして、なんて無防備な手なのかしら)
母の胸に顔を埋めながら、エンヴァは静かに目を閉じた。
前世で手に入れたのは、民からの畏怖、部下からの忠誠、敵からの憎悪。
あるいは、敬意。
けれど、目の前のこの女性が与えてくれるのは、そのどれでもない。
能力があるから愛するのではない。
血脈の証があるから敬うのでもない。
ただ「そこにいる、私の娘だから」という理由だけで、自分の命を投げ打ってでも守ろうとする、圧倒的で無償の愛。
(……こんなの、はじめてかも)
十歳の体に宿る魔女の魂が、初めて「守られる安らぎ」という感情に震えていた。
外でどれほど血が流れようと、どれほど自分が怪物として蔑まれようと、この腕の中だけは、自分がただの「エンヴァ」でいられる聖域。
リーリャの規則正しい心音を聞きながら、エンヴァは泥のような深い眠りに落ちていった。
リーリャの柔らかな胸に顔を埋め、その規則正しい心音を聞きながら、エンヴァの意識は濁流のような過去の記憶へと沈んでいった。
「母」という言葉。それは、これまでの数多の生涯において、エンヴァにとっては「絶望」か「取引」の同義語でしかなかった。
(……思えば、ずいぶんと売られてきたものね)
夢うつつの中で、エンヴァは自嘲気味に独りごちた。
一つ前の人生。
産みの母は、まだ幼かったエンヴァを「豚二頭と小麦の袋」と引き換えに、煤煙たなびく工場へと売り飛ばした。
その母が、エンヴァが権力を手にした途端に卑屈な笑みを浮かべて現れ、エンヴァとの約束を破ったた時、エンヴァは迷わず彼女を沼地へと引きずり込み、生きたまま埋め殺した。
それが、前世の「母娘の絆」の結末だった。
その後の転生においても、状況は似たり寄ったりだった。 物心つく前に死別しているか、あるいは生き延びていても「商品」として扱われるか。
ある人生では借金のカタに売られ、またある人生では政略の道具として差し出された。
まだ幼さの残る少女時代に娼館へ売られ、ほどなく体中から膿が出る性病にかかり、意識が朦朧とする中でも自分を売った母が迎えに来る事はなく、そのまま息を引き取った生もあった。
極めつけは、帝国の第三皇女として産まれた時だ。
高貴な血を引くはずの母は、あろうことかエンヴァの首を、その細い指で絞め殺そうとした。
愛されるどころか、生存そのものを否定される。
それがエンヴァにとっての「母親」という存在の規定値だった。
けれど、今はどうだろう。 この人生で出会ったリーリャという女性は、エンヴァを売り飛ばすどころか、自分が飢えても幼い体を巨躯の兵隊たちに売り、娘にパンを与え、外の惨劇に怯えながらも、小さな娘を必死にその腕で隠そうとしている。
(……ああ。リーリャお母さま、貴方はなんて「普通」で……なんて、狂おしいほどに優しいのかしら)
自分を殺そうとした指ではなく、自分を慈しむために動くリーリャの指。
エンヴァは、母のパジャマの裾をギュッと握りしめた。




