7生 ep.9
赤く染まった広場の惨劇から数時間後。
帝都の喧騒を遠くに置いた、静かなアパートの一室。
そこには、先ほどまでの地獄が嘘のような、穏やかで温かな時間が流れていた。
夕食のテーブルには、湯気を立てる野菜たっぷりのスープと、白く柔らかいパンが並んでいる。
かつての「藁のパン」は、今や遠い記憶の向こう側だ。
「なんだか今日、軍とデモ隊が衝突したらしいわね……。警察署も騒がしくて、非番の人まで警備に駆り出されていたわ」
リーリャはスープを木匙ですくいながら、どこか他人事のような、けれど少しだけ不安そうな面持ちで言った。
清掃兼事務職の彼女に届くのは、あくまで「整理された報告」と、遠くで鳴り響いた乾いた銃声の余韻だけだ。
「ふうん……なんだか怖いわね、お母さま。悪い人たちが暴れているのかしら?」
八歳のエンヴァは、あざといくらいに首を傾げ、リーリャが切り分けてくれたパンを小さなお口で齧った。
「そうねえ。ニコライさんという方の考えに賛成する人が多いみたい。でも、あんなに大騒ぎしなくても、お話で解決できればいいのに……。あら、エンヴァ、口の横にスープがついてるわよ」
「あ、ほんとだ。えへへ、ありがとう。お母さま」
リーリャは微笑んで、柔らかな布でエンヴァの頬を拭う。
彼女にとっての世界は、この温かな部屋と、愛する娘の笑顔がすべてだった。
窓の外で、自分と同じ年頃の女性たちが泥を噛んで死んでいったことなど、この硝子の聖域には届かない。
「ねえ、お母さま。明日の日曜日は、一緒に新しいリボンを買いに行かない? 警部さんが、私にお小遣いをくれたの」
「あら、また? 警部さんには本当に良くしていただいて……。でも、明日は街が少し騒がしいかもしれないから、裏通りの小さなお店にしましょうか」
「うん! お母さまに似合う、綺麗な青色のリボンを探すわね」
エンヴァは天使のような顔で笑い、スープを飲み干した。
裏通りの店——。
そこはすでにアルテリの少年たちが完全に警護し、一匹の野良犬さえ母を脅かさぬよう、「掃除」が済んでいる場所だ。
「楽しみね。……ああ、こうして二人でいられるのが、一番の幸せだわ」
リーリャが満足そうに目を細める。
その細い指先を、エンヴァはそっと握りしめた。
エンヴァの心に迷いはなかった。
母の瞳に、あの日見たような「涙」が溜まるくらいなら、帝都の半分を焼き尽くすことなど、彼女にとっては安い買い物に過ぎなかった。
母リーリャが寝静まった深夜。
アパートの一室か、あるいは署内の隠し部屋か。
そこには、三年前とは完全に入れ替わった「支配者」と「従者」の姿があった。
「貴方をここの署長にしようと思うの、お父様」
紅茶のカップを置く小さな音と共に、八歳のエンヴァが事も無げに告げた。
正面に座る警部は、その言葉に心臓を素手で掴まれたような衝撃を受け、顔を強張らせた。
「……ッ、どういう了見だ? 今の署長は、皇帝派の有力なコネクションを持っている。そう簡単に挿げ替えられる男じゃない」
「あら、だからこそよ。その方が色々と『都合』が良いの。お母さまが働くこの署の全権が貴方に渡れば、私はもっと安心して夜の仕事に専念できるでしょう?」
淡々と語るエンヴァのペースは、何年経とうが崩れることはない。
警部は震える声で絞り出した。
「……どう、するつもりだ。まさか、正面から殺す気か?」
「ふふ、そんな無粋なことしないわ。あの署長さん、人柄はとても『良い署長さん』だったから、少し気の毒だとは思うけれど……」
エンヴァは可憐に小首を傾げた。
その瞳の奥には、慈悲の欠片も存在しなかった。
翌朝。
帝都の広場、虐殺の記憶が新しいその場所に、異様な「オブジェ」が出現した。
そびえ立つ柱に吊るされていたのは、両腕を根元から叩き落とされ、無残に逆さまにされた署長の骸だった。
死体の胸には、ナイフで深々と突き立てられた紙片。
そこには、先日ニコライが叫んでいたのと同じ言葉が踊っていた。
『労働者に自由と平等を!』
「……革命主義者共の仕業か!先日の報復だなッ!」
現場は騒然となり、警察の面子は丸潰れとなった。
誰もが「復讐に燃える学生組織」による犯行だと結論づけた。
だがその夕方、署に戻った警部の耳に、小さな少女の囁きが届いた。
「……西3番街の帽子屋の地下を調べてみなさい。そこに、貴方の『出世の鍵』が転がっているわ」
半信半疑で強制捜査に踏み込んだ警部が見たのは、地下室に隠れていた六人の革命主義者たち。
そして、部屋の隅に無造作に転がっていた、署長の「二本の腕」だった。
動かぬ証拠。
革命の旗印。
署長を惨殺したテロリストを即座に検挙した英雄として、警部は異例の速さで新たな署長へと昇進した。
「ね、私の言う通りだったでしょう? お父様?」
執務室の大きな椅子に座る男の背後に立ち、エンヴァがその肩に小さな手を置いた。
「署長さん、死ぬ間際まで『自分は民衆のために尽くしてきた』って泣いていたそうよ。……滑稽よね。その民衆に罪を擦り付けられて死ぬなんて」
鏡越しに映る八歳の義娘の、天使のような、しかし深淵のように暗い微笑み。
「……ああ。……ああ、そうだな」
新署長となった男の背筋に、冬の霙よりも冷たい戦慄が走った。




