7生 ep.8
帝国が抱える慢性的的な飢餓とインフレーション。
その臨界点に、一人の男が火を放った。
「平等」という名の幻想が、煤に汚れた帝都を真っ赤な熱狂で染め上げていく。
帝都の中心、灰色の空を突く時計塔の広場。
そこには、数百の労働者と、行き場を失った孤児、そして絶望を糧に生きる民衆が黒山のように集まっていた。
その中心で、一人の男が演壇代わりに荷車の上に立ち、声を張り上げる。
「同志諸君! 我々が今日、胃袋に流し込んだのはスープか、それともただの泥水か!」
学生ニコライの、飢えた獣のような叫びが霧を切り裂いた。
「見よ、あの時計塔を! あの金色の装飾を! あれは我々の血を煮出し、骨を砕いて作られたものだ。地主は我々の土地を奪い、資本家は我々の時間を食い潰し、皇帝はその残飯を優雅に眺めている!」
民衆の間に、地鳴りのような唸りが広がる。
「なぜ!汗を流す者が飢え、椅子に座る者が肥えるのか! 法律が我々を縛る鎖ならば、そんなものは叩き壊すべきだ! 果実は、それを育てた労働者の手にこそあるべきだ! 我々は家畜ではない、人間だ! 平等という名の光を、この灰色の街に取り戻そうではないか!」
「平等を!」
「パンを!」
「ニコライに続け!」
広場は熱狂の渦に飲み込まれた。それは理性を焼き尽くす、暴力的なまでの救いの声だった。
その喧騒から離れた、広場を見下ろす豪奢な時計塔の特別室。
八歳になったエンヴァは、高級なソファに深く腰掛け、硝子越しにその熱狂を眺めていた。
「……ふふ。相変わらず、人間は『聞こえのいい嘘』が大好きね」
エンヴァは、手元にある最高級のダージリンを一口含み、可憐な唇を歪めた。
彼女の黄金色の瞳には、ニコライの理想など一滴も映っていない。
(平等? 労働者の手に果実を? ……寝言は寝てから言うものよ。人間は生まれながらにして不平等で、その格差こそが社会という歯車を回す油だというのに)
彼女にとって、ニコライの言葉は毒に過ぎなかった。
毒は、一度回れば思考を麻痺させ、人を死すら恐れぬ狂戦士に変える。
だが、その毒に侵された民衆のエネルギーだけは、本物だ。
(でも……あの男、いい『火種』にはなるわね。あれだけの熱狂があれば、帝国の硬直したシステムを外側から焼き切るくらいの熱量は得られるかしら)
エンヴァは、かつて魔女として一国を統治した経験から知っている。
高潔な理想を掲げる者ほど、現実という壁にぶつかった際に「汚い力」を求める。
その時、彼らが最後に縋るのは、自分のような「死の商人」であるということを。
「ニコライ。貴方の理想を、存分に歌い上げなさい。……ゆっくりと観察してあげるわ」
八歳の少女は、狂乱の広場に向かって優雅に乾杯の仕草をしてみせた。
ニコライの演説から数日後。
帝都の空気は、熱狂から凍てつくような緊張へと一変した。
「パンと平等を」
と叫ぶ非武装の民衆に対し、皇帝が下した答えは、対話ではなく「掃討」であった。
その日は、冬の先駆けとなる冷たい霙が降っていた。
広場を埋め尽くした数万の民衆は、手作りのプラカードを掲げ、平和的なデモを行進していた。
だが、大通りの向こう側から現れたのは、重厚な鎧を纏った帝国軍の銃兵連隊であった。
「……警告は一度だ。速やかに解散せよ。さもなくば、反逆者と見なす」
拡声器を通した軍指揮官の冷酷な声が響く。
だが、空腹と理想に突き動かされた民衆は退かなかった。
一人の少年が投げた石が、騎兵の兜に当たった——それが、地獄の幕開けだった。
「掃討開始!」
指揮官の剣が振り下ろされると同時に、広場を囲む建物の屋上から、無数の銃口が火を噴いた。
それは戦闘ではなく、一方的な屠殺だった。
「ぎ、あああああッ!?」
「逃げろ! 伏せろッ!」
逃げ惑う人々の背中に、無慈悲な鉛の弾丸が突き刺さる。
石畳の上に積もった薄い雪は、瞬く間にどす黒い鮮血に染まり、湯気を上げた。
さらに、密集する民衆へ向けて、帝国軍が誇る重機関銃——皮肉にもエンヴァの工場で生産された武器——が、咆哮を上げた。
鋼鉄の嵐が肉体を紙細工のように引き裂き、広場は阿鼻叫喚の地獄へと変じる。
馬の蹄が、倒れた老人や女子供を容赦なく踏み潰していく。
かつてリーリャが歩いたかもしれないその道は、いまや内臓と泥が混じり合う惨劇の舞台と化していた。
「ニコライ様! ここは危険です! 早く!」
「……待て、まだあそこに子供が! ああ、神よ……これが貴方の望んだ秩序かッ!」
肩を撃ち抜かれ血塗れになった学生たちがニコライを引きずり、路地裏へと逃げ込む。
背後では、帝国軍の兵士たちが無感情な機械のように、動くものすべてを「処理」し続けていた。
彼女は窓の外、赤く染まった広場を冷ややかに一瞥する。
絶望の底に叩き落とされた理想家が、自らの理想を実現するために自分の元へ這いずってくる時間は、もうすぐそこまで迫っていた。




