7生 ep.5
新生アルテリの根城。
エンヴァは、机に広げられた「支配の構図」
——即ち、金の流れを記した帳簿を眺め、冷ややかな溜息をついた。
「……この警察への付け届け? 随分と豪勢な金額じゃないの」
エンヴァが指し示した数字は、少年たちが犯罪によって掻き集めた稼ぎの、実に七割に達していた。
「で、でも、それを収めないと全員逮捕するって警部が……」
「逮捕されたらムショ送りだ、今まで生きて帰って来た奴なんて一人もいねえ」
震えながら答える部下に、エンヴァは心底呆れたように舌を巻く。
「売り上げの五割が一人の警部へ。残りの二割がその取り巻きの警官たちへ、ね。……道理で貴方たちがいつまでも藁のパンを齧っているわけだわ。これは深刻な『構造的欠陥』ね」
この不当な搾取を、魔女は許さない。
愛する母を養うための収入を、豚のような役人が食い潰している事実は、彼女の逆鱗に触れるに十分だった。
「ちょっと、話をつけてくるわ」
翌日、五歳の少女はたった一人で帝都の警察署へと足を踏み入れた。
「あら、ごきげんよう。私が新しくリーダーになったエンヴァよ。今後よろしく頼むわね」
署内の奥、煙草の煙が充満する警部室。
上座に踏ん反り返る恰幅のいい男に、エンヴァは天使のような微笑みを向けた。
「はぁ?お前が? 前のリーダーはどうした」
「私が殺したわ。文句あるかしら?」
「……ッ、お前が? 本気か?」
リーダーが少女に殺されたという噂は署内にも届いていた。
だが、目の前の小さな少女が、あどけない顔で「自分が殺した」と平然と言い放つ異様さに、警部は一瞬だけ息を呑んだ。
「……まあいい。誰が頭だろうが、これまで通り『上納』さえ怠らなければな」
「そうね。私としては、少し譲歩を望みたいところなのだけれど。これまでの10分の1で良ければ助けてあげなくも無いわよ」
「フン! ガキが生意気な口を利くな! 嫌なら今すぐ監獄へぶち込んでやってもいいんだぞ!」
エンヴァをただの幼女と侮り、鼻で笑う警部。
エンヴァはその言葉を否定することなく、丁寧に包まれた一包みを机に置いた。
「今日のところは、これで失礼するわ。……これ、お昼にでもどうぞ。口に合うといいのだけれど」
街で売られているホットドッグか何かだと思い、警部はせせら笑いながらそれを受け取った。
昼食時。
彼が自席でその紙包みを開いた瞬間—— 血の気が引き、喉の奥からせり上がる嘔吐感に襲われた。
中に入っていたのは、パンでも肉でもない。 白く細い「女の左手」だった。
肘から先が残酷に切り落とされたその腕。
薬指には、見覚えのある結婚指輪が、鮮血を纏って鈍く光っている。
警部の妻と娘は、エンヴァが署に現れるよりも前にアルテリによって拉致され、その腕は警部への「挨拶」として切り離されていたのだ。
「お味はいかがかしら?」
包みに同封されていた手紙には一言、そう添えられていた。
警部は署を飛び出し、狂ったように自宅へとひた走った。
だが、荒々しく蹴り開いた扉の先にあったのは、静寂という名の絶望だった。
「リザ! マリア……ッ!」
妻と娘の名を呼ぶ声は、主を失ったリビングに虚しく吸い込まれる。
夕食の支度が整いかけていたキッチン。
まだ温もりを残したティーカップ。
そこには、暴力の痕跡すら残されていない。 まるで最初から誰もいなかったかのように、リーリャと同い年である十八歳の娘の姿も、彼女を慈しんでいた妻の姿も、消え去っていた。
ただ、食卓の中央に、一枚の白いメモが置かれていた。
『奥さんと娘さんは、私の家に遊びに来ているわ。』
『これから浮浪者を集めて、二人と一緒に「大人ごっこ」をして遊んであげるつもりなの。』
『貴方から、良い返事が届くのを待っているわね。』
「……っ、あああああッ!!」
メモを握りしめる警部の手が、激しく震える。
『大人ごっこ』——それが意味するのはあの凄惨な行為を指しているのだと理解した瞬間、彼の胃の底から冷たい氷がせり上がってきた。
自分の娘が、浮浪者たちの獣じみた欲望に晒される。
自分が今まで見逃し、むしろ助長してきた「構造」の中に、最愛の家族が放り込まれたのだ。
「ああ……ああ……」
警部は、膝から崩れ落ちた。
数日後の霧深い帝都の朝。
かつて傲慢に街を闊歩していた警部の自宅前には、二つの「死体袋」が投げ捨てられていた。
警部は震える手でその袋を解いた。 中から転がり落ちたのは、最愛の妻と娘だった。
「あ……うあ……え……」
言葉にならない言葉を発している二人。
命こそあった。
だが、袋から出された二人の瞳は、厚い布で幾重にも、ぐるぐる巻きに覆われ、外の世界を拒絶するように閉ざされていた。
何が起きたのか、彼女たちは語らない。
いや、語るための精神が、すでに粉々に砕け散っていた。
視界を奪われ、漆黒の闇の中で集められた浮浪者たちと「大人ごっこ」に興じさせられた彼女たちは、今や生ける屍——廃人と化していたのだ。
「ああ……ああ……ッ!」
警部の慟哭が、冷たい朝の空気に消えていく。
二人の無垢な肌に刻まれた、消えることのない痕跡。
それが、エンヴァという名の魔女に逆らった「対価」だった。
五歳の少女は、たった数日でこの男からすべてを奪い去った。
もはや、抵抗する意志など欠片も残っていない。
警部は泥濘の中に額を擦り付け、姿の見えぬ魔女に完全なる敗北を認めた。
要求された上納金の全額返還、そして組織の隠れ蓑としての警察の権力——。
そのすべてが、エンヴァの手元へと、淀みなく流れ込み始めた。
こうして、灰色の帝都の片隅に、誰もが耳を疑うような犯罪組織が誕生した。
トップに立つのは、わずか五歳の少女。
廃屋の窓から、黄金色に染まり始めた朝焼けを見つめ、エンヴァは静かに微笑んだ。




