7生 ep.2
鉄の軋みと石炭の煙が空を支配するこの街で、身寄りのない若すぎる母娘が飢えを凌ぐ道は、あまりに、あまりに少なかった。
彼女は、エンヴァという小さな命に明日のパンを与えるため、見知らぬ男たちにその身を委ね、抱かれることしか術を持たなかった。
今年で、ようやく十八歳。
エンヴァに似て、雪のように白く透き通った肌を持つ彼女。
その美しい肌が、男たちの粗野な手によって赤く汚されるたび、一欠片のパンと、娘が生きるための数時間が買い戻される。
(……ああ、そう。この身体の母親も、そうなのね)
五歳の姿をした魔女は、暗い部屋で一人、静かにその音を聴いていた。
男たちの獣じみた息遣い。
それを受け入れる母の、苦しげで、けれどどこか慈愛に満ちた震え。
「……愚かね、でも美しいわ」
エンヴァは、煤に汚れた小さな手を見つめる。
十八歳の母。
まだ少女の面影を残す彼女が、その身を削って繋いでくれたこの命。
「いいわ。精一杯、私を愛しなさいな、お母様」
五歳の魔女の黄金色の瞳に確かな熱を持った決意の火が灯った。
「あら、起こしてしまった? エンヴァ?」
扉の隙間から差し込む微かな光に照らされて、十八歳の母、リーリャが顔を覗かせた。
乱れた髪を整えようともせず、ただ愛おしげに目を細めるその姿は、あまりに儚く、硝子の細工のようだった。
「ううん、大丈夫、リーリャお母さま」
エンヴァは、魔女の記憶が目覚める前の「幼い少女」の記憶を慎重に手繰り寄せ、その名を呼んだ。 たった今、この小さな体の中で、それまで「エンヴァ」を構成していた純粋な子供の意識は、膨大な魔女の意識の奔流へと飲み込まれ、完全に融合していた。
(……どうやら、とても良い子だったみたいね)
内側に宿る「魔女」は、かつてのエンヴァが抱いていた母への無垢な信頼と、献身的な愛を冷静に分析する。
母に一抹の疑念も抱かせぬよう、かつてのエンヴァそのままの幼い仕草で、布団から身を起こした。
「今のお客さんね、ヴォプラと黒パンを置いていってくれたの。良かったわね、エンヴァ」
リーリャは、愛おしそうに包みを広げた。
そこにあったのは、塩辛い干し魚「ヴォプラ」と、ずっしりと重い黒パン。
エンヴァの記憶が、その味を教えてくれる。
それは、噛めば噛むほど「藁」の不快な感触が口に広がる、量を増やすためのまがいもののパンだ。
前世での貧しい女工時代、似たような粗末な食事を口にしたことはあった。
けれど、今のこの環境は、かつての地獄さえも生温く感じるほどに飢えている。
「ええ、嬉しいわ。お母さま……ありがとう」
エンヴァは、母が差し出した藁混じりのパンを小さな手で受け取った。
雪のように白いリーリャの肌には、今しがた男に付けられたであろう新しい痕跡が刻まれている。
その代償が、この喉を刺すようなまがいもののパンなのだ。
(……そう、これがこの生の『現在地』)
少女は、藁の混じったパンを静かに口に運んだ。
舌を刺す塩辛さと、土のようなパンの味。 それは、どんな宮廷料理よりも重く、魔女の冷え切った魂に火を灯す「はじまりの味」となった。
薄暗いランプの光の下、藁の混じった黒パンを分け合う。それさえも叶わないほど、この家の現実は枯れ果てていた。
「お母さまも食べて。半分こしましょう?」
エンヴァは、喉を刺すような黒パンを小さくちぎり、母リーリャの唇へと差し出した。
魔女としての意識は、この食料がいかに劣悪なものかを理解している。
けれど、今のエンヴァにとっては、母の細い体を維持するための貴重な資源に他ならなかった。
しかし、リーリャは力なく首を振った。
はだけた胸元から覗くあばら骨は、浮き彫りになるほどに痩せ細っている。
雪のように白い肌は、今や不健康なまでに透き通り、今にも消えてしまいそうな儚さを纏っていた。
「いいのよ、エンヴァ。貴女が全部食べなさい。育ち盛りなんだから、たくさん食べないと……」
そう言って微笑む彼女の頬は、こけて痛々しい。
自分は空腹に耐えながら、娘の腹を満たすことだけを生きがいにしている。
その献身は、前世でエンヴァが知った「愛」と同じ熱量を持っていた。
(……これはちょっと、何とかしないとね)
母の頑なな拒絶を目の当たりにし、エンヴァは内心で静かに唇を噛んだ。
このままでは、母は飢えと過労で朽ち果ててしまう。
かつての人生なら、手っ取り早く軍資金を作るために「賭け事」に興じたことだろう。
だが、エンヴァはその選択肢を真っ先に思考の帳簿から抹消した。
(あんな掃き溜めに、この人を連れていくわけにはいかないわ。勝ったところで、この儚いお母さまじゃ取り立てもできない。野良犬たちに囲まれて、怯える姿なんて見たくないもの)
賭場の男たちの中に、この硝子細工のような母を置くなど論外だ。
エンヴァが求めるのは、母を泥濘から救い出すことであって、さらに汚すことではない。
「わかったわ、お母さま。……でも、次はもっと美味しいものを二人で食べようね。約束よ?」
エンヴァはそう言って、母の指先にそっと自分の小指を絡めた。
黄金色の瞳の奥で、かつて世界を揺るがした魔女の知略が、冷徹なまでの速度で回転を始める。
「おやすみなさい、リーリャお母さま」
母を眠りにつかせた後、エンヴァは暗闇の中で、まだ魔力の通い切っていない小さな掌をじっと見つめた。
窓の外、鉄の街を覆う霧はどこまでも冷たく、重い。
五歳のエンヴァは、母の隣で横たわりながら、この帝国の「歪み」を冷静に俯瞰していた。




