7生 ep.1
石炭の煤が窓を黒く染める安アパートの一室。
五歳の少女、エンヴァの小さな身体を、灼熱のような魔力の奔流が駆け抜けた。
「……っ、ふ、あ……」
小さな喉を、熱い塊がせり上がってくる。
それは魔力の奔流であり、同時に、重すぎる過去の残滓だった。
五歳のエンヴァは、煤けた壁に小さな手を突き、激しく乱れる呼吸を整える。
何度か前の生では、この魔力の流れに体が耐え切れずその場で死んだ。
しかし、今世では何とか命をつなぐ事ができるだけの体力は備わっていたようだ。
視界が晴れたとき、その瞳には幼子らしい輝きはなく、かつて世界を意のままに操り、そして全てを捨てて愛を選んだ魔女の「黄金色」が深く宿っていた。
「……」
暗い部屋。
窓の外からは、蒸気機関のくぐもった排気音と、鉄が擦れる不協和音が聞こえてくる。
かつての宮殿のような静謐も、島で過ごした穏やかな陽光も、ここにはない。
何より、あの暖かな家族がいない。
厳しいけれど誰より頼りになったクラリッサも、泥臭く土を耕し続けたクリフも、毛布のように温かかったイメルダも。
そして、数万の軍勢を率いて自分を強引に奪い返しに来た、あの愛すべき「所有物」レオンさえも。
つー……
エンヴァの頬に涙が流れる。
「ああ、そう……。確か私、海に身を投げて死んだのよね」
五歳の唇から漏れたのは、あまりに冷たく、けれど懐かしむような独り言。
「……レオとリナはどうなったのかしら?」
ポツリと、かつて島で見送った新しい命──自分たちが遺した「未来」の行方を思う。
魔女がいなくなった後の世界を、あの子たちは笑って生き抜いてくれただろうか。
エンヴァは、煤で汚れた自分の小さな掌を見つめた。
五歳のエンヴァは、ベッドの端に腰掛け、小さな足をぶらつかせながら、前世の最期に思いを馳せていた。
(意外と、楽しかったわね……)
窓の外、ガス灯が霧に濡れる街並みを見つめながら、エンヴァは小さく独りごちた。
脳裏に浮かぶのは、あの「島」での穏やかすぎる日々だ。
魔女としての権力も、国家を揺るがす数字の羅列もすべて投げ打ち、ただの女として生きた時間。
かつてクラリッサと交わした約束。
「おもしろ、おかしく生きる」
あの日、必死に縋るようにして決めたその約束は、間違いなく果たされたのだ。
かつての仲間たちは、一人、また一人と穏やかに歳を重ねていった。
クラリッサも、イメルダも、クリフもレオンも。
彼らは順に老人となり、シワの刻まれた手でエンヴァの手を握りしめ、涙を流しながら
「ありがとうございました、エヴァ様」
と感謝の言葉を唱えて、彼女の見守る中で旅立っていった。
「……計算違いだったわね」
魔女として世界を睥睨し、心なんてとっくに無くしてしまったと思い込んでいた。
けれど、最愛の家族たちが消えていくたび、胸の奥には鋭い痛みと共に、あまりに人間らしい感情が芽生えていったのだ。
彼らがいなくなって、悲しい。
ただそれだけのことが、最強の魔女と呼ばれた彼女の魂を、激しく揺さぶった。
そして、誰もいなくなったあの砂浜。
寄せては返す波の音だけが響く静寂の中で、エンヴァは迷うことなく、彼らの後を追うように海へと身を投げた。
海水の冷たさは絶望ではなく、愛する者たちの元へと帰るための、清らかな導きだった。
「……待たせちゃったかしら、みんな」
波に飲まれながら浮かべた最期の微笑み。
それが、魔女エンヴァとしての人生の清算だった。
五歳のエンヴァが、前世の光輝く記憶の残滓に浸っていたその時。
現実の冷気が、煤けた壁を伝って彼女の意識を今へと引き戻した。
極寒の帝都。
その最下層に位置するアパートの壁は薄く、冬の隙間風と共に、隣室の生々しい営みの音を容赦なく伝えてくる。
ふと、耳を澄ます。
薄い壁一枚を隔てた向こう側から、くぐもった女の喘ぎ声が聞こえてくる。
それは、わずか十三歳という幼さでエンヴァを産み落とした、実の母の声だった。




