6生 ep.40~
共和国が崩壊し、監視の鎖に繋がれてから三年の月日が流れた。
流刑の島と呼ばれた南の小島は、今や四人の手によって、世界で最も平和な「隠れ里」へと作り変えられていた。
「——でね、エヴァ様。あの時の宰相以下、議会の皆さんは全員、戦争の責任を取って処刑されたそうですわよ。……あ、そっちの苗、もう少し深く埋めた方がよろしくて?」
海風に長い銀髪をなびかせ、慣れた手つきでスコップを動かすのはクラリッサだ。
かつての秘書官兼工場長としての鋭さはそのままに、その表情には島での穏やかな時間がもたらした、柔らかな気品が備わっていた。
「そうなの。ま、仕方ないわよね。……自業自得という名の、当然の決済だわ」
エンヴァは、麦わら帽子の影から黄金色の瞳を覗かせ、泥に汚れた手で新しい豆の畑に肥料を撒いていた。
共和国を買い叩き、一国の命運を掌の上で転がしていた聖女の面影は、今やこの豆を育てることに注ぎ込まれている。
「エヴァ様! 堆肥の追加、持ってきましたよ!」
逞しい青年に成長したクリフが、重い木箱を軽々と肩に担いでやってくる。
少年の面影は消え、その体躯は厳しい自然の中での労働によって鋼のように鍛え上げられていた。
「助かるわ、クリフ。……イメルダは? 今日のお茶の準備は進んでいるかしら?」
「母さんなら、新しく開発した『自動茶葉乾燥機』の調整に夢中ですよ。……平和ですよね、本当に」
数ヶ月に一度、最低限の生活必需品と「終わった世界」のニュースを運んでくる連絡船。
それが彼らにとっての唯一の外界との接点だった。
人々は、かつて世界を震撼させた魔女のことなど、とっくに忘れてしまったかのように見えた。
——けれど、その「忘却」という名の平穏が、唐突に破られる。
三年の沈黙。誰もが彼らの存在を記憶の隅に追いやった頃。 島の水平線上に、いつもの連絡船とは明らかに違う、一隻の小舟が姿を現した。
南の内海に浮かぶ、名もなき「流刑の島」。
その荒れた岬に、一艘のボロボロな小舟が流れ着いた。
船体は至る所がひび割れ、帆は潮風に晒されてボロ布のようになっている。
そこから降り立ったのは汚れ、使い古された旅装に身を包んだ一人の男だった。
日焼けした肌と、節くれだった指。
その姿には、この三年間、彼がどれほどの荒波を越え、どれほどの孤独な夜を明かしてきたかが刻み込まれていた。
「……三十五、か」
男——レオンは、震える手で岬の岩に船を縛り付けた。
共和国の崩壊後、彼は玉座も権力も投げ打ち、ただ一人の女性の影を追って海へ出た。
訪れた島はこれで三十五個目。
水も食料も底を突き、意識が朦朧とする中で辿り着いた、絶海の孤島。
「……誰か、いないか。補給を……。いや、それよりも……」
ふらつく足取りで、百人ほどの住人が暮らす集落へと向かう。
道行く老人に、彼は枯れた声で、祈るように問いかけた。
「……すみません。この島に、銀髪の、美しいエヴァという女性はいませんか?」
どうせまた「知らない」と言われる。
そう覚悟していたレオンの耳に、信じられない言葉が届いた。
「銀髪ねぇ。ああ、山の向こうに変わり者の一家が三年前から住み着いとるが、それじゃないかね? 綺麗な娘さんが二人いたはずだ」
「ッ……!!!」
レオンの瞳に、三年分の熱が灯った。
返事をする間も惜しみ、彼は指差された方向へ走り出した。
岩場を越え、茂みをかき分け、泥に足を滑らせながらも、ただひたすらに。
山の斜面に拓かれた、青々とした豆の畑。
そこには、麦わら帽子を被り、野良着を泥で汚しながら、淡々と作業を続ける女性の姿があった。
「——エヴァ、様……」
その声は、掠れていた。
作業の手を止めた彼女が、ゆっくりとこちらを振り返る。
黄金色の瞳。
三年前より少し大人びた、けれどあの頃と変わらない、冷徹で、それでいて全てを包み込むような眼差し。
「……エヴァ様! エヴァ様ぁ!!」
レオンは喉を震わせ目に涙をあふれさせ、子供のように叫びながら、彼女の元へ飛び込んだ。
勢い余って二人して豆畑の泥の中に倒れ込み、レオンは彼女の細い腰を、壊れ物を抱くような、それでいて二度と離さないという執念を込めた力で抱きしめた。
「……会いたかった……! ずっと、ずっと探していたんだ……! 三年だ、三年間……貴女のいない世界が、どれほど空っぽだったか……っ!」
レオンの顔は涙と鼻水、そして畑の泥でぐしゃぐしゃになっていた。
逞しくなった肩を激しく震わせ、彼は彼女の胸に顔を埋めて、嗚咽を漏らした。
「エヴァ様……僕を、置いていかないでくれ……。もう、何もいらない……。貴女が隣にいてくれるなら、僕は一生、この泥の中で豆を育てて生きていく……! だから、お願いだ……!」
「……ちょっと、うるさいわよ。せっかくの肥料が台無しじゃない」
エンヴァは溜息をつきながらも、泥だらけのレオンの頭にそっと手を置いた。
その指先は冷たかったが、彼を拒絶するように突き放すことはなかった。
「随分と遅い到着ね。私の『所有物』なら、せめてもっと早くに見つけ出しなさいな」
「……っ、ああ……! はい、すみません……! 本当に、すみません……!」
泣きじゃくる王子の声が、静かな島に響き渡る。
三年の放浪を経て、傷だらけの船がようやく辿り着いたのは、世界一狭くて、世界一温かい「楽園」だった。
泥だらけで泣きじゃくるレオンを、エンヴァは呆れたような、けれどどこか慈しむような眼差しで見下ろしていた。そこへ、山の斜面を駆け下りてくる足音が重なる。
「あら……。その泥だらけの不審者は、どこかで見たことがあると思ったら」
最初に現れたのはさらに洗練された美しさを湛えたクラリッサだった。
彼女は手にした籠を置き、目を見開いてレオンを凝視する。
「クラリッサ……それに、クリフも……!」
レオンが顔を上げると、そこには逞しい青年へと成長したクリフと、変わらぬ微笑みを浮かべたイメルダが立っていた。
「レオン様……本当に、一人でここまで……」
クリフが感極まったように声を震わせる。
だが、レオンの視線は、イメルダの腕の中に抱かれた小さな命に釘付けになった。
ふにふにと柔らかな頬、そして、眠りから覚めてゆっくりと開かれたその瞳。
「……ッ、その子の、目は……」
レオンが息を呑む。 赤子の双眸は、この島に降り注ぐ陽光を凝縮したような、鮮やかな黄金色を放っていた。
「ええ。エヴァ様と同じ、祝福の光を授かった子ですわ。……私たちの、新しい希望です」
イメルダが愛おしそうに赤子を揺らす。
その光景は、血の繋がりを超えた「家族」の完成を物語っていた。
それから、さらに数年の月日が流れた。
レオンは宣言通り、王位も英雄の称号も捨て去り、この島の一住人として生きる道を選んだ。
彼はエンヴァの傍らにいながら、自分を支え、共に旅を続けてきたクラリッサと結ばれた。
それは、長い苦難を共にした二人にとって、至極当然で、穏やかな帰結だった。
レオンとクラリッサの間に生まれた可憐な女の子。
「エヴァ様、この子の名前……貴女に付けていただきたいのです」
クラリッサが、少し照れたように、けれど確かな信頼を込めて願い出た。
エンヴァは、自分の指を力強く握りしめる赤子たちの小さな手を見つめ、静かに口を開いた。
「そうね……。リナ。……悪くない名前でしょう?」
エンヴァが産んだ男の子にはレオをいう名前がつけられていた。
「レオと、リナ……。はい、最高の名前です!」 レオンが二人の子を抱き上げ、太陽にかざす。
かつて国を動かし、帳簿を管理し、戦火の中で冷徹に生きた魔女と仲間たち。
今、彼らの世界にあるのは、国家の栄枯盛衰を記した古い地図ではなく、泥にまみれた手で育てる豆の芽と、黄金の瞳に映る子供たちの未来。
南の島の潮騒が、新しく名付けられた二人の名を優しく包み込み、どこまでも遠く、平和な空へと運んでいった。
南の海、地図の隅に追いやられた「流刑の島」。
かつて世界を震わせ、歴史の帳簿を書き換えた魔女と、彼女を追い続けた王子、そして忠実なる共犯者たちの物語は、そこで静かに、そして完全に途絶えている。
後世の歴史家たちがどれほど血眼になって探そうとも、共和国を影で操った「黄金の瞳の聖女」の足跡を辿ることはできなかった。
彼女が愛用した工場の記録は焼き払われ、彼女の名を呼ぶ声は混迷の時代の中で風化し、やがて「聖女」という名の曖昧な伝説へと形を変えた。
けれど、名もなきその島には、今も確かな「生」の跡が遺されている。
島の小高い丘、海を一望できる特等席には、不揃いな四つの古い墓標が寄り添うように並んでいる。
そこには名前も、功績も、誇り高き称号も刻まれていない。
ただ、長い年月の間に角が取れ、穏やかな潮風に晒された石が、かつてここに「四人の家族」がいたことだけを静かに証明していた。
そして、その傍ら。 かつては数え切れないほどの美味しいスープを煮込み、時には誰かを悶絶させる「苦い汁」を湛えていたであろう、使い古された鉄の鍋。
火に炙られ、煤け、底が薄くなったその道具は、今はもう、ただの鉄の塊として草むらに転がっている。
レオとリナ。
黄金の瞳を継いだ少年と、母の面影を宿した少女。
彼らがその後、どのような海を渡り、どのような人生を選んだのかを知る者は誰もいない。
ただ、この島に吹く風だけが知っている。
歴史は彼らを忘れた。 けれど、彼らにとって、それは何よりも望んでいた、最高の「出口戦略」だったのだ。
窓の隙間から冷たい風が吹き込む、湿っぽく狭い部屋。
電球ひとつが頼りなく揺れるその部屋で、ひとつの、けれどあまりに強烈な産声が響き渡った。
「オギャア! オギャア!」
それは、まだ幼さの残る、青い瞳の少女が命を削って産み落とした新しい命。
頼る者もなく、誰に祝福されることもなく、たった一人で出産の痛みに耐え抜いた少女は、震える手でその赤子を抱き上げた。
「……はぁ、はぁ……っ。私の……赤ちゃん……」
少女が、我が子の顔を覗き込んだ、その瞬間。
「ッ……!?」
赤子がゆっくりと瞼を持ち上げる。
そこにあったのは、淀んだ部屋の空気さえも黄金色に焼き尽くすような、神聖で、冷徹なまでの輝きを放つ黄金の瞳。
その光を浴びた刹那、少女の瞳から色が抜けた。
まるで、膨大な「記憶」の奔流に意識を乗っ取られたかのように。
あるいは、遠い未来——あるいは過去から届いた、不可視の「契約書」に署名させられたかのように。
彼女は、何かに導かれるように、無意識にその名を唇に乗せた。
「……エンヴァ。……貴方の名前は、エンヴァよ」
その名を呼んだ瞬間、少女は力尽きたように赤子を抱きしめた。




