6生 ep.39
共和国の崩壊は、もはや止めることのできない必然だった。
しかし、その巨像に最後の一撃を見舞ったのは、周辺諸国の猛獣たちではない。
西の海から荒波を越えて現れた、一人の「王子」だった。
二年の月日は、少年の面影を剥ぎ取り、一人の英雄を造り上げていた。
かつてエンヴァに縋り、泣きじゃくっていたレオンは、今や数万の将兵を統べる「若き獅子」として、燃える都の前に立っていた。
「……開け放て! 臆病な大人たちが閉じこもる、この呪われた門を!」
レオンの声が、戦雲を切り裂き、兵たちの士気を極限まで跳ね上げる。
巨大な破城槌が唸りを上げ、共和国が誇った重厚な鉄門を、まるで薄い氷のように粉砕した。
入城を果たしたレオンの瞳に映っていたのは、勝利の栄光でも、奪還すべき王宮の宝物でもなかった。
彼は血を流し、息を切らす馬に鞭を入れ、なりふり構わず駆ける。
目指す場所は、ただひとつ。
かつて、黄金の瞳を持つ一人の魔女が、世界の命運を自在に操っていたあの場所だ。
「エヴァ様! エヴァ様……! お迎えに上がりました!」
埃が舞い、戦火の煙が立ち込める中、レオンは叫んだ。
喉が裂けんばかりの、渇望と愛着が混ざり合った咆哮。
「貴女の『所有物』が、約束通り貴女を奪い返しに来ましたよ! ほら、見てください! 貴女のために、国を一つ、ひっくり返してきました!」
涙が頬を伝い、煤にまみれた顔を濡らす。
たどり着いたのは、かつて世界の富を動かし、止まることのない熱気に包まれていた巨大な工場跡。
けれど、彼を待っていたのは、求めていた魔女の冷たい微笑ではなかった。
かつて空を焦がした温かい蒸気の代わりに、そこには冷たい埃と、耳が痛くなるほどの静寂が立ち込めていた。
動きを止めた歯車、主を失った執務机、そして、何もかもが運び出され、もぬけの殻となった広大な空間。
「……あ、あ……」
レオンの力が抜け、その場に膝をつく。 彼が二年間、死線を越え積み上げてきた「勝利」という名の捧げ物は、受け取るべき主のいない、ただの虚しい瓦礫と化していた。
「……嘘だろ。何だ、これは」
震える声が、無人の空間に虚しく響く。
そこは、かつて共和国の国民たちの手によって、徹底的に破壊されていた。
四人で足を絡ませ、他愛もない話に花を咲かせたコタツ。
あの優しい時間が流れていた私室は、壁紙が剥がされ、窓ガラスは粉々に砕け散っている。
イメルダが心を込めてお茶を淹れてくれたキッチンも、クリフが目を輝かせて新発明に挑んでいた工房も――今はただの、冷え切った石の箱に過ぎなかった。
思い出を土足で踏みにじられたような屈辱と、愛する者が消えた喪失感。
レオンの心の中で、何かが音を立てて壊れた。
「エヴァ様はどこだ! 答えろ、この愚か者!」
レオンは、泥の上に跪かされていた宰相の胸ぐらを、力任せに掴み上げた。
かつては一国の実権を握り、尊大に振る舞っていた老人は、今や死を待つだけの惨めな塊でしかない。
「ひ、ひぃっ……! 知らぬ、私は何も知らぬのだ! あの女は……あの女は、軍が壊滅するよりもずっと前に、忽然と姿を消したのだ!」
「消えただと……? そんなはずがあるか! 彼女はこの国の『象徴』だったはずだ!」
レオンの鋭い眼光が、絶望に震える老人を至近距離から射抜く。
掴んだ拳に力が入り、宰相の古い衣服が悲鳴を上げた。
「……あの日だ。二年以上も前……。あの女は、まるで今日という日を予見していたかのように、最低限の荷物だけを持って消えた。残されたのは、もぬけの殻となった工場と……この、ガラクタの山だけだ!」
宰相が指し示したのは、略奪の末に打ち捨てられた、壊れた家具の残骸だった。
「……知らぬ、と言っているだろう。あの女は、ある日突然、煙のように消えたのだ……。書き置き一つ残してな。……私こそ、聞きたいくらいだ。あの女は、この国を使い捨てて、どこへ逃げ去ったというのだ!」
「……逃げた、だと? 違う。エヴァ様は、貴様らのような価値のない連中を、見限っただけだ……っ」
レオンの手から力が抜け、宰相は地面に転がった。
虚ろな目で工場の天井を見上げる。そこには、あの日、エンヴァの黄金色の瞳に映っていた高い空すら、もう見えなかった。
「エヴァ様……。いずこに……。僕は、こんな空っぽの国を欲しかったわけじゃない……。貴女が隣にいないのなら、この勝利に、一体何の意味があるというのですか!」
王子の絶叫は、冷え切った廃墟に木霊し、ただ虚しく灰色の空へと吸い込まれていった。
かつて世界を震わせた共和国の威光は、今や見る影もない。
議員たちの名誉という欲望が自らを焼き尽くし、残されたのは、周辺諸国による重苦しい「監視」と、誇りを奪われた国民たちの溜息だけだった。
「……エヴァ様、エヴァ様。どうか、私たちをお救いください」
瓦礫の山となった広場で、誰かが力なく呟いた。
その声は瞬く間に波紋のように広がり、やがて巨大なうねりとなって街を包み込んでいく。
「聖女様をお戻ししろ! あの御方がいた頃の、豊かな帝国に戻してくれ!」
かつて、彼女を「聖女」と呼び、自由を求めて議会を支持したはずの民衆。
入城を果たしたレオンは、臨時司令部となった議事堂のバルコニーから、その絶叫を聞いていた。
「……聖女、か。皮肉なものだな」
レオンは、あの日海の上で交わした熱い口づけの感覚を思い出しながら、自嘲気味に笑った。
彼が手に入れたのは、各国の監視下に置かれ、魂を抜かれた抜け殻のような国。
どれほど権力を握ろうと、どれほど土地を広げようと、そこに「彼女」がいないのなら、すべては無価値な砂の城に過ぎない。
「(貴女は、こうなることも分かっていたのですか? ……僕がどれほど追い求めても、貴女が望まなければ、指先一つ触れられないことも)」
同じ頃。南の内海、地図からも忘れ去られたような静かな島。
「……あら、なんだか海の向こうが騒がしいわね」
エンヴァは、新調した白いワンピースの裾を潮風に揺らしながら、お気に入りの椅子で優雅に本を閉じた。
「エヴァ様、お茶が入りましたよ。今日はイメルダさんが、この島で採れた果物でジャムを作ってくれたんです」
「それは楽しみね、クラリッサ。クリフ、貴方も早くその『自動草むしり機』を置いてこっちにいらっしゃい。……せっかくの紅茶が冷めてしまうわ」
遠い空の下で、自分の名を呼ぶ悲痛な叫びが響いていることなど、彼女は露ほども知らない——あるいは、知っていて、もう興味がないだけか。
混迷の時代へと突入した大陸。
その喧騒を背に、魔女は今、最高に「退屈」で「平和」な午後を楽しんでいた。




