6生 ep.38
共和国が「怪物」としての寿命を終え、断末魔を上げているその頃。
「ふぅ……。こっちはだいたい終わったわ。キッチンの方はどうかしら?」
三角巾を口元に巻き、右手に雑巾、左手にはたきという「完全装備」のエンヴァが、ひょこりと顔を出した。
彼女がまず着手したのは、この家の心臓部。
居間に据えられた古い暖炉だ。
豆を煮るのに誂え向きな、少し小ぶりで堅牢な造り。
その煤を徹底的に払い落とし、磨き上げた暖炉は、今や新しい生活の温もりを待つばかりの状態だった。
「こっちはもうちょっとですね~、エヴァ様」
返ってきたのは、流し台と格闘するクラリッサの声だ。
エンヴァにも勝るとも劣らない美女に育ったクラリッサ。
その美しい指先は、今、長年放置されてこびりついた頑固な汚れを、布一枚で真っ向から「攻略」している最中だった。
「……随分と手強い汚れね。でも、貴女の根気なら、そのうち流し台が鏡に変わるでしょうね」
「ふふ、お褒めに預かり光栄ですわ。せっかくエヴァ様が手に入れた『資産』ですもの。最高に磨き上げないと気が済みません」
そんな二人の会話に、外から威勢の良い音が重なる。
ザクッ、ザクッ、とリズム良く雑草がなぎ倒される音。
「エヴァ様! 見てください、ここを畑にしましょう! 近くに井戸もありますし、土を耕せば絶対に良い畑になると思います!」
逞しく成長したクリフが、背丈ほどもある雑草を軽々と切り倒し、山のように積み上げていた。
「……いいわね、クリフ。収穫が今から楽しみね」
魔女と仲間たちは、自分たちの手で「最高に清潔で、最高に退屈な楽園」を、一歩ずつ作り上げていた。
「そうね。……私たちの、私たちのための畑。何よりも大切に育てなきゃね」
そう言って微笑むエンヴァが纏っているのは、かつての威厳を誇示するような深紅のドレスではない。
どこにでもある町民が着るような、少し着古された粗末な服。
けれど、飾り立てる宝石も、裁断の美しい絹も失ったはずの彼女は、潮風の中でかつてないほどに光り輝いて見えた。
(……ああ。今のエヴァ様なら、もしかしたら……)
ふと、クリフの胸にそんな「不敬」な、けれど甘い錯覚がよぎる。
手の届かぬ高嶺の魔女から、同じ土を踏む一人の少女へ。
だが、クリフは慌てて首を振り、心に浮かんだ雑念を無理やり消し去った。
今の平穏を壊すような贅沢は、彼には必要なかった。
「ウフフ」
少年の淡い動揺を見透かしたように、小さく、けれど優しく笑うと、エンヴァはまだ片付けの残る寝室へと足を向けた。
「あら、エヴァ様。こちらはそろそろ終わりますよ」
そこではイメルダが、よく陽を吸ってふっくらと膨らんだ毛布を取り込んでいた。
馬車に積めるだけの荷物を選別した際、エンヴァが真っ先に「これだけは」と指定したのは、四人の生活用品と、そしてひとつの大きなベッドだった。
「でも、本当にいいのですか? エヴァ様。貴女ほどのお方が、私たちのような者と同じ枕を並べて眠るなんて……」
イメルダが少し申し訳なさそうに問いかける。
かつての共和国であれば不敬罪に問われかねないその提案。
だが、エンヴァはこれまでに見せたことがないような、純粋で、透き通った笑顔で微笑んだ。
「いいのよ、イメルダ。……眠る時まで、みんなと一緒にいられるなんて、これ以上の幸せがあるかしら?」
それは、世界の仕組みを操る冷徹な支配者の顔ではなかった。
昼間の片付けを終え、島に静かな夜が訪れた。
窓の外からは絶え間ない潮騒の音が聞こえ、冷え切った大陸の喧騒が嘘のように遠い。
「……あら、そんなに端の方にいなくていいわよ」
薄暗い寝室の中、エンヴァは大きなベッドの真ん中で、少しだけ所在なさげに身を縮めている三人に向けて声をかけた。
イメルダとクラリッサ、そしてクリフ。
彼らは長年の身分の壁を崩しきれないのか、大きなベッドの隅に申し訳なさそうに腰掛けていた。
「ですが、エヴァ様。やはりこれは……」
「いいから。……命令よ。今日は全員、私の手の届く距離で眠りなさい」
少しだけ昔のような強引な口調で言うと、エンヴァは毛布を広げて彼らを招き入れた。
渋々、けれどどこか嬉しそうに、三人がシーツの上に体を横たえる。
エンヴァを中心に、右側にクラリッサ、左側にイメルダ、そして足元に近い側にクリフ。
初めて触れる、自分以外の人間の体温。
一人、冷たい絹のシーツに包まれていた頃には想像もできなかった熱が、毛布の中で静かに混ざり合っていく。
「エヴァ様、おやすみなさいませ」
クラリッサの囁くような声が隣で響く。
やがて、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
イメルダの穏やかな呼吸、まだ少し緊張しているのか時折寝返りを打つクリフの気配。
エンヴァは暗闇の中で天井を見つめ、そっと隣にいたクラリッサの手を握った。 握り返される、確かな温もり。
かつて彼女が動かした巨大な軍隊も、領土も、この手のひらの中にある小さな熱には到底及ばない。
(ああ……これだわ)
孤独な魔女が、全てを捨ててまで欲しかった唯一の答え。
明日になれば、また新しい畑の仕事が待っている。
土と埃にまみれ、汗を流し、豆を煮る、平凡で退屈な日々。
けれど、このひとつの寝床で同じ夢を見る安らぎがある限り、その日々は何よりも価値のあるものになる。
エンヴァは満足げに瞳を閉じ、大切な家族の寝息に耳を澄ませながら、深い眠りへと落ちていった。




