6生 ep.37
冬の嵐が窓を叩く音も、東方の戦場で上がる悲鳴も、この小さな木枠の中には届かない。
新しく作り上げた暖房具「コタツ」は、四人の男女を、逃れがたい心地よさと柔らかな静寂で包み込んでいた。
足を絡めて弄んでいたクリフを解放し、エンヴァは冷え始めた紅茶のカップを見つめながら、ふと、独り言のように零した。
「……そろそろ、この場所も潮時かしらね」
その一言に、コタツを囲んでいた三人の動きが止まった。
「……潮時、って。何の話よ、エヴァ。急に怖いこと言わないでちょうだい」
クラリッサが、不安を隠すように明るい声を出す。
エンヴァは黄金色の瞳を細め、窓の外で吹き荒れる吹雪の先にある、目に見えない「国の終わり」を見据えていた。
「もう一度、私がこの国を立て直してあげてもいいのだけれど。……この四人で、まあ、もう一人くらい増えてもいいのだけれど」
「うん」
「……きっともう、あんなに美味しいケーキも食べられなくなるかもしれないけど」
「もう! じれったいわね、はっきり言ってよ、エヴァ!」
業を煮やしたクラリッサが身を乗り出す。
エンヴァはゆっくりとコタツから身を起こした。
その姿は、悪戯好きな少女ではなく、すべてを見通す「賢者」のそれだった。
「この場所も、それなりに気に入ってはいたのだけれどね。……私、この国を出ようと思うの」
沈黙が場を支配した。
エンヴァには見えていた。
東方への遠征は惨敗に終わり、国が弱まった瞬間に、抑えつけられていた国々が一斉に牙を剥く未来。
そして、その混乱に乗じて共和国に上陸するのは——
あの日、海の上で別れたあの少年、レオン率いる西の島国であろうと。
「……また、でねじ伏せて、この国を元に戻してあげるのは簡単よ。でも、そうすべきではないと思ったの。一度腐りきった花を無理に咲かせるより、枯れた後に新しい芽が息吹くのを、遠くから眺めている方が……ずっと、私の性分に合っているもの」
彼女にとって、この国はすでに「遊び飽きたおもちゃ」であり、同時に「次の誰かに譲るべき場所」でもあった。
魔女は、自分の後を継ぐであろうレオンに、もしくは他の誰かにまっさらな舞台を譲るために「退場」を決意したのだ。
(執着を捨てなさい)
あの日の『先輩』の言葉を思い出す。
このまま歴史の中心に自分を置くのは愚策であると感じた。
「……エヴァ様。どこへ行こうと、僕の命は貴女のためにあります。貴女のいない場所に、僕の居場所なんてありませんから」
クリフが、まだ赤い顔を伏せたまま、けれど真っ直ぐな声で言った。
「私もよ、エヴァ。貴女の隣で文句を言っていられないなら、どこにいたって同じだわ。……さっさと荷造りを始めましょう。次は、どんな所に行くのかしら?」
クラリッサが微笑み、イメルダが穏やかに頷く。
「そうですね。次は、もっと暖かい場所で、もっと美味しいお茶を淹れられる場所へ行きましょう。……どこへ行っても、私たちは一緒ですから」
エンヴァは、わずかに目を見開き、それから満足げにコタツの布団を握り直した。
冬の嵐が去り、春の兆しが見え始めた頃。共和国の心臓部であったエンヴァの工場からは、煙も、機械の音も、そしてあの「魔女」の気配も、嘘のように消え失せていた。
「……『引退するわ。探さないで』。……ふん、ふざけた女だ」
宰相は、机の上に投げ出された簡素な置手紙を苦々しく睨みつけた。
あとに遺されたのは、形ばかりの新しい工場長と、事務的な引き継ぎ書。
エンヴァは三人の仲間を連れ、行き先も告げず、夜霧に紛れて姿を消した。
「あの小うるさい女がいなくなったか。……これでようやく、私の思い通りにこの国を動かせるというものだ」
不敵な笑みを浮かべる宰相の耳に、東方の前線から朗報が届く。
共和国軍は、東の大国が敷いた六十一箇所にも及ぶ防衛線を、三つの部隊に分け多大な被害を出しながらも力ずくで食い破ったという。
「東方遠征軍はどうなっている?」
「はっ! あと二ヶ月以内に、敵国の首都へと到達する見込みです!」
「やっとか、長かったな。……だが、首都さえ落としてしまえば、この大陸のすべてが我が手の内にある」
激烈な抵抗を退け、おびただしい血を流しながらも、共和国軍はついに東の大国の首都へたどり着き城門を突き破った。
黄金の装飾が施された大通りを、疲弊した兵士たちが埋め尽くしていく。
「やった! ついに勝ったぞ!」
一人の兵士が叫び、空に剣を掲げた。
だが、その歓喜の声は、大地を震わせる轟音によって無慈悲にかき消された。
「……何だ? 地響きか!?」
——ドォォォォォォォォォォン!!
「しまった! 首都は囮だ! 全員、ここから離れろ! 総員撤退ッ!!」
老将軍の叫びも虚しく、首都のいたるところに仕掛けられていた爆弾が、一斉に牙を剥いた。
崩れ落ちる建物。
吹き飛ぶ石畳。
精鋭と呼ばれた共和国軍は、戦う相手すらいない「空っぽの街」で、ただ無残に散っていく。
東の大国が仕掛けた「空っぽの首都」という巨大な罠。その口が閉じられた瞬間、勝利の叫びは断末魔へと反転した。
「――撃ち方用意ッ! 撃てぇ!!」
轟音と共に、一斉に火を噴く銃口。
唯一崩されずに残っていた城門、そこはもはや出口ではなく、共和国兵たちを効率的に処理するための「屠殺場」と化していた。
「敵襲! 背後に伏兵です! 退路が塞がれています!」
「火だ! 街が燃えている! 逃げろ、ここから逃げろォ!」
火の海となった城内から、煤にまみれ、髪も着衣を焼かれながら這い出してきた兵士たち。
彼らを待っていたのは、陣形を整える余地すら与えない、冷徹なまでの斉射だった。
東の大国の兵たちは、まるで農作物を刈り取るかのような無機質な手際で、引き金を引き続ける。
「侵略者を逃がすな! 泥棒共に死の制裁を!」
敵軍の叫びが、燃え盛る建物の崩落音と共に響き渡る。
かつて六十九万を数えた圧倒的な軍勢は、この瞬間に文字通り打ち砕かれた。
組織的な抵抗は霧散し、精鋭たちはただの「逃げ惑う標的」へと成り下がっていた。
そして、その惨劇のただ中に、一つの巨星が墜ちる。
「……ここまでか。エヴァ様、申し訳、ありません……」
崩れ落ちる瓦礫の側で、無数の銃弾を浴びて膝をついたのは、あの老元帥だった。
エンヴァがかつて、議会の無能な軍略を鼻で笑いながらも、「守備だけは、それなりに上手いわね」と、唯一その腕を認めていた不抜の将。
鉄壁と呼ばれた彼の盾ですら、この罠を食い止めることはできなかった。
元帥は、自分たちを見捨てた冷酷な魔女の黄金色の瞳を思い出しながら、その命を散らした。
彼が守り抜こうとした「共和国の栄光」は、今、主を失ったまま業火に包まれ、修復不可能なまでの「壊滅」を記録していた。




