6生 ep.33
「……遅すぎますわ、エヴァ様!! もう限界ですっ!」
銀髪のカツラを放り出し、頬を膨らませてプンスカと怒り狂うクラリッサ。
そこには、何食わぬ顔でティーカップを手にするエンヴァがいた。
「あら、おかえりなさい、クラリッサ。身代わり、ご苦労様。……豆の具合はどう? 私の留守中に、少しは美味しくなったかしら?」
「美味しくなるどころか、私の忍耐が焦げ付くところでしたわ! ……それで? 西の海の方は、綺麗に『お掃除』できましたの?」
「ええ。ゴミはすべて沈めてきたわ。……ついでに、可愛らしい『置き土産』もね」
エンヴァは、唇に残っていた熱を思い出すように、そっと自らの口元に指を触れた。
かつての連戦連勝。
その甘美な響きに酔いしれた共和国海軍の「驕り」は、西の海峡で文字通り蒸発した。
艦隊を失った共和国は制海権を失った。
首都で朝から街に響き渡るのは、勝利の凱歌ではなく、不吉なまでにけたたましい弔鐘の音だった。
「……なんだか、ずいぶんと騒がしくなったわね」
エンヴァは、お気に入りのバルコニーで紅茶を一口啜り、広場から聞こえる喧騒に眉をひそめた。
「ええ。属国の一つが、西の島国に内通して食料を横流ししていたそうですよ、エヴァ様」
傍らに立つクラリッサが、手元の報告書に目を落としながら事務的に付け加える。
「通常の二十倍という、実に見事な暴利らしいですね。……で、そこを統治していた辺境伯の一族が、財産没収の上、見せしめに処刑されるそうです」
兵士達から様子を聞いてきたクリフ。
「全く、愚かなことを。……せっかくの命を、たかだか二十倍程度のはした金で売り払うなんて」
エンヴァは黄金色の瞳を細め、広場に設置された断頭台を見下ろした。
「今日だけで三十人以上の首を斬るそうです。……そのほとんどが、罪のない奥方や子供の類だとか」
「やれやれ、ですね。」
エンヴァの冷徹な視線とは裏腹に、海を隔てた島国では、全く別の「取引」が進行していた。
「……これだけの美術品があれば、小麦がどれだけ買える?」
フードを目深に被った青年王子レオンは、王家に代々伝わる名画や宝飾品を、闇商人たちの前に無造作に並べた。
共和国の包囲網を潜り抜け、闇夜に紛れて食料を運び込む闇商人たち。
彼らが求めているのは、島国の「誇り」という名の換金資産だった。
「……若、本気ですか? これは初代国王が……」
「誇りで腹は膨れない! 今この瞬間、飢えている国民の口にパンを放り込むこと以上に、価値のある王の仕事など存在しない!」
レオンの瞳には、かつてエンヴァが教えてくれた「実利」が宿っていた。
彼は自ら率先して王家の私財を投げ打ち、共和国側の闇商人と通じ、禁輸を潜り抜けて食料を買い揃える。
「(……見ていてください、エヴァ様。貴女に教わった守り方、僕なりに実践してみせますから)」
共和国のギロチン広場で「裏切り者」の首が飛ぶ中、島国の王子は、自国の誇りを切り売りしてでも「民の命」という最強の資産を買い戻そうとしていた。
この日、共和国議会が放った第一陸軍は、怒涛の勢いで東方の大国の重要港湾へと攻め入った。
先の海峡での惨敗により、地に落ちていた軍の士気。
だが、この「目に見える戦果」に、軍上層部と議会は、ようやく喉元に刺さっていた刺が抜けたかのように、安堵の溜息を漏らしたのである。
「これで東の喉元を押さえた! 補給路は我が手にある!」
勝利に沸く王都。だが、その喧騒から切り離されたエンヴァの工場では、全く別の空気が流れていた。
「……はぁ。まるでバカね」
エンヴァは、報告書を指先で弾き飛ばすと、お気に入りのスコーンにたっぷりとクロテッドクリームを乗せた。
その黄金色の瞳には、勝利の熱狂など微塵もなく、ただ「出来の悪い計算式」を見た時のような深い落胆だけが浮かんでいる。
「手前の港を一つ二つ、力尽くで抑えたところで何になるのかしら? 海路なんて、隣の港から出航する船を止められない以上、全く意味がないのに」
「本当ですね、エヴァ様。そこを落としたところで、さらに奥には中継用の港がいくらでもありますもの。彼らが制圧した場所を迂回して、物流が別の枝に分かれるだけ……。むしろ、維持費だけが嵩む不採算部門を抱え込んだようなものですわ」
クラリッサが、呆れ顔で紅茶を注ぎ足す。 共和国の参謀本部が、地図上の「点」を塗りつぶすことに血道を上げている一方で、工場で行われているこのティータイムの方が、よほど正確に世界の「流れ」を射抜いていた。
「……目に見える『領土』という餌を与えられれば、大衆は満足する。議会はそれを知っていて、あえて無駄な出血を強いたのかしら? だとしたら、救いようのない三流の演出家ね」
エンヴァは、窓の外で万歳三唱を繰り返す市民たちを、冷めた目で見下ろした。
共和国の「象徴」へと祭り上げられたエンヴァの元には、連日、勝ち誇った議員たちが「戦果報告」という名の自慢話を持ち込んでいた。
かつて彼女が恐怖と実利でまとめ上げた軍隊を、今や自分たちの「おもちゃ」のように振り回す大人たち。
その姿は、エンヴァの黄金色の瞳には、あまりに滑稽で、救いようのない「赤字垂れ流し」にしか映っていなかった。
「……これ以上の戦争は、私は認めないわ。相手に焦土作戦を取られて、兵糧と時間を無駄に捨てるだけだもの」
豪華な装飾が施された応接室。
エンヴァは、差し出された進軍計画書に一度も目を落とさず、冷淡に言い放った。
「そうは言っても、エヴァ様。これは我ら共和国の、誇り高き『正義の統一戦争』なのです。たとえどれほどの犠牲を払おうとも、歴史のために命をかけて成し遂げるべき事なのです!」
議員の一人が、胸を張り、陶酔したような声で叫ぶ。
その言葉を聞いた瞬間、エンヴァの口角がわずかに、蔑むように吊り上がった。
「命をかけて、ね。……別に『貴方』の命がかかっているわけではないでしょうに。現に貴方はここで暖かいお茶を飲んでいるだけじゃない」
「な……! とにかく、火ぶたは切られました。来週の臨時議会で、東方への大規模遠征軍を正式に編成する予定です。……エヴァ様、貴女も軍に同行されますか?」
期待に満ちた議員の問いに、エンヴァは心底嫌そうな顔をして鼻で笑った。
「するはずないじゃない。私はこれ以上の出兵には反対。……そんな暇があるのなら、一旦軍の八割を解散して、国内のインフラ整備と流通の再編に使いなさい。その方が、よっぽどこの国の『時価総額』は上がるわ」
しかし、魔女の正論は「正義」という名の熱病に冒された男たちの耳には届かない。
数日後、エンヴァの希望も虚しく、議会は全会一致で東方遠征を決定した。
「(……はぁ。私が独裁をやっていた方が、まだマシだったかしら?)」
離宮の窓から、着々と進軍の準備を進める兵士たちを眺め、エンヴァは小さく溜息をついた。
彼女が丁寧に耕し、種を撒いた「庭」が、彼女の手を離れた途端、最悪の方向へと暴走を始めている。
「(……いいわ。折れそうな枝は一度折れて、根元から腐り落ちればいい。」
それから約1年、エンヴァは18歳になっていた。
戦争は一進一退。
一つの防衛線が破られれば次の防衛線が現れ、それをまた一か月かけて抜くとまた次の防衛線が現れると言った寸法だ。
東の大国との戦争は膠着状態と言って良かった。




