6生 ep.32
共和国の議会が「正義」と「利権」に酔いしれ、西の島国への侵攻を決定したその時。
工場の執務室では、いつものように「魔女」が窓辺に佇み、静かに時を刻んでいるはずだった。……だが、その「静寂」こそが、エンヴァが仕掛けた最大の計略であった。
「……ねぇ、クラリッサ。そのカツラ、少し右に寄っているわよ。もう少し『退屈そうに』外を眺めていてちょうだい」
「仰せのままに、エヴァ様。……ですが、この銀髪、少しチクチクいたしますわ。それに、いつまでこの『煮豆の番』を続ければよろしいのかしら?」
「飽きるまでよ。……私の不在を疑う者が来たら、いつものセリフを」
数日後。
王都の離宮には、議会の決定を報告せんとする使いや、新たな利権を求める醜い陳情者たちが列をなしていた。
だが、彼らを迎えたのは、固く閉ざされた扉と、申し訳なさそうに、けれど断固とした態度で立ちふさがる侍女の言葉だった。
「……申し訳ございません。エヴァ様は現在、新豆を煮ることに心血を注いでおられまして。三日三晩、火の前を離れておりません」
「ま、また豆……ですか。……なら、仕方ないですな。あの御方の煮豆への執着は、もはや国家の法よりも重い……」
来訪者たちは、一様に肩を落として去っていった。
エンヴァがかつて見せた「煮豆への異常なこだわり」は、今や共和国内で語り草となっており、それが彼女の「不在」を隠す隠れ蓑となっていたのだ。
共和国の精鋭艦隊と、決死の覚悟で迎撃に現れた島国の艦隊。
両軍が激突せんとするその海域で、一隻の旗艦が波を蹴立てて進んでいた。
メインデッキの先端。
そこには、決戦を前に唇を噛み締める少年王子、レオンの姿があった。
そして、その隣。
フードを深く被り、潮風にその華奢な身体を翻しながら、黄金色の瞳で戦場を見据える「影」が一つ。
エンヴァは細い指を海原へ向け、不敵に微笑んだ。
王都に鎮座する「煮豆の象徴」と、海上に降臨した「破壊の魔女」。
二つの顔を持つ少女の策略によって、歴史は共和国の勝手な筋書きを大きく踏み外そうとしていた。
西の海を埋め尽くした、共和国が誇る大艦隊。
その数は島国艦隊のそれに対して三倍。
「数こそが正義」と信じて疑わない議会の操り人形たちは、密集体系を維持したまま、傲慢にも中央突破を図ろうとしていた。
だが、彼らが踏み込んだのは「海」ではなく、魔女の「胃袋」の中だった。
「……密集? ふふっ、まとめて消してくれと言わんばかりね」
旗艦の舳先、レオンの隣でフードを脱ぎ捨てたエンヴァが、薄いくちびるを歪めて嗤った。
彼女が細い指先を天にかざすと、空間そのものが「悲鳴」を上げ始める。
「消えなさい」
刹那、白銀の閃光が海を割った。
直撃を受けた中央艦隊の半分が、爆辞を述べる暇もなく、原子の塵となって蒸発する。
「な、何事だ! 何が起きた! 敵は小舟のはずだろう!?」
混乱に陥り、互いに衝突を繰り返す共和国艦隊。
だが、地獄はここからが本番だった。
エンヴァは、小刻みに震えるその手を、今度は海面へと叩きつける仕草をする。
「……持ち上がりなさい。我が庭を汚す泥船を、一掃する『波』となって」
地形魔法。
浅い海峡の海底が、巨大な質量となってせり上がる。押し上げられた海水は山のような津波となり、残された共和国艦隊を、まるでおもちゃの船のように弄びながら粉砕していった。
「あ、は……っ。ああ……ッ!!」
凄まじい魔力の放出。
その反動か、あるいは万物を蹂躙する万能感ゆえか。
レオンの隣で、エンヴァの身体がビクンと激しくのけぞった。
「……あ、ふ……」
普段の冷徹な仮面はどこへやら。
エンヴァの黄金色の瞳はとろりと潤み、焦点は合わず、どこか遠い法悦の世界を彷徨っている。
紅潮した頬、わずかに開いた唇からは、銀色の糸を引く唾液が零れ落ち、白い首筋を汚していく。
「あ、はぁっ……レオン……見て、なさい……。これが、貴方の……新しい、世界よ……」
荒い呼吸のたびに、彼女の小さな胸が上下に波打つ。
その表情は、神々しいまでの美しさと、直視すれば魂が焼かれるような禍々しさが同居していた。
「……エヴァ、様……」
レオンは、目の前の「魔女」に圧倒されていた。
あまりに美しく、あまりに淫靡。
その法悦に満ちた姿に、少年としての恐怖を覚えながらも、心は、魂は、すでに抗いようもなくこの「絶対的な力」に捕らえられていた。
「(……怖い。けれど、離れられない。この人の、この熱に、僕のすべてを焼き尽くされてもいい——)」
海を呑み込む津波の音さえ、今のレオンには、少女の甘い吐息の後ろに流れるBGMにしか聞こえなかった。
炎上する共和国艦隊。
蒸発した海水の霧が、戦場を幻想的な白に染め上げる。
その中心で、世界を壊し、そして作り変えた「魔女」は、未だに荒い呼吸を繰り返していた。
「エヴァ様……!」
レオンは、震える手でエンヴァの肩を抱き寄せた。
まだ熱を帯び、とろけるような湿った瞳で自分を見つめる彼女を。
万物を無に帰したその圧倒的な力の余韻に、少年は恐怖を通り越し、一種の狂信的な情熱に突き動かされていた。
「このまま、私の国へ来てください。そして……私の妻になってほしい! 貴女を、誰の手も届かない場所で、僕が一生守りますから!」
唐突で、あまりに青臭い求婚。
だが、魔力の法悦から醒めやらぬエンヴァは、拒む代わりに、潤んだ瞳でレオンの唇をじっと見つめた。
「……ふふっ。守る? 貴方が、私を? ……面白い冗談ね」
エンヴァは少年の首に細い腕を絡めると、吸い寄せられるように、熱い口づけを交わした。
銀色の糸が引くほど、深く、火傷しそうなほどに情熱的な唇と絡み合う舌の感触。
レオンは目を白黒させ、心臓が爆辞を唱えるほどに跳ね上がるのを感じたが、次に耳元に届いたのは、氷のように冷たく、けれど甘い「宣告」だった。
「……今のは、退職金みたいなものよ。レオン。貴方はこのまま、自分のいるべき場所へ戻りなさい」
「え……? 退職、金……?」
「そう。貴方の存在が共和国に……あの醜悪な大人たちに利用されれば、私の工場が汚れるわ。人質として使い潰される前に、自分の庭を整えてきなさい」
エンヴァは優しく、慈しむように少年の頬を撫でる。
その指先は、先ほど敵軍の心臓を握り潰した時と同じ、絶対的な「主」の感触だった。
「いい? 私の言うことだけを聞いていればいいの。貴方は私の『所有物』なのだから。……私の許可なく、勝手に壊れることは許さないわ」
「……わかりました、エヴァ様。……僕は、必ず立派な王になります! 貴女が誇れるような、最高の国を作ってみせる。そして……必ず、貴女を迎えに行きますから!」
「期待しないで待っているわ。……さあ、行きなさい。」
そう言い残し魔女は、小舟に乗り霧の向こうへと消えていった。




