6生 ep.31
しかし、その少年王子の魂の叫びが、海を越えて父王に届くことはなかった。
「……ほう。王子からの密書か。なかなか、賢明な判断だ」
帝都の暗がり、宰相府の一室。 エンヴァが「適当に」選んだはずの、民主主義の象徴たる宰相の部下が、レオンの手紙を冷笑と共に暖炉の炎へ放り込んだ。
「……見なさい、レオン。これが、私の庭。」
首都で最も大きな市場にレオンを連れて来たエンヴァ。
この市場で流通する食料の約6割が彼女の農場や菜園から運ばれてきたものだ。
エンヴァは、積み上げられた新鮮な林檎を指先でなぞりながら、静かに告げた。
だが、レオンからの返事はない。隣に立つ少年の肩は、小刻みに震えていた。
彼の脳裏には、対照的な故郷の情景が焼き付いていた。
骨と皮ばかりになり、泥水を啜って命を繋ぐ民たち。
王族であるレオン自身ですら、一日の食事を抜くことが当たり前だった極貧の生活。
軍はやせ細り、かつての精強さは見る影もない。
国内では野盗化した元国民たちが村々を襲い、女を奪い、略奪を繰り返す地獄絵図。
そして、あろう事か国民たちはーー飢えを逃れる為に人を喰っていた。
それがレオンを大陸へと走らせた最も大きな動機だった。
もはや、国としての体を成していない、腐り落ちるのを待つだけの果実。
「……う、ううっ……ああ……!」
こらえきれなくなった感情が、嗚咽となって溢れ出した。
レオンはこの豊かさを目の当たりにして、あまりに無力な自分と、今この瞬間も飢えに苦しむ同胞を想い、その場に崩れ落ちた。
「あら。そんなところで泣かれると、私が貴方をいじめているみたいに見えるじゃない」
エンヴァは困ったように眉を寄せたが、その黄金色の瞳には冷徹さではなく、どこか遠い記憶を慈しむような光が宿っていた。
彼女はそっと腰を落とし、泣きじゃくるレオンの頭を自分の控えめな胸元へと引き寄せた。
「……泣きなさい、レオン。涙で胃袋は膨らまないけれど、心に溜まった泥くらいは洗い流せるわ。大丈夫よ、私の言葉に嘘はない。貴方の国も、いずれこうなるわ。……私が、そうすると決めたのだから」
十七歳の少女の、まだ細い肩。
けれどレオンにとっては、それは世界で最も堅牢な城壁よりも頼もしく感じられた。
エンヴァは少年の背中を優しく撫でながら、ふと視線を高く、西の空へと向けた。
「……それにしても、手紙の返事が遅いわね」
ポツリと独り言ちる。
魔女として神格化され、大陸の半分を支配する彼女。
……だが、どれほどの知略を持っていても、一通の手紙が誰かの悪意によって暖炉の火に消えたことまでは、知る術がなかった。
「……私の提案を蹴るほど、貴方の御父上は強欲なのかしら。それとも、私の『声』が届かないほど、あの海は深すぎるのかしらね」
空をゆく雲を見つめるエンヴァの表情は、どこか寂しげで、そして——嵐の前の静けさを孕んでいた。
王都の喧騒から離れた、静謐な執務室。 十四歳の少年王子レオンは、震える手で何度目かも分からないペンを走らせていた。
「……父上。どうか、私の言葉を信じてください。この国(帝国)を率いるエンヴァという少女は、単なる破壊者ではありません。彼女に従うことこそが、我が民を飢えから救う唯一の道なのです……!」
インクが滲む。レオンの瞳には、かつて見た豊穣な市場の光景と、泥水を啜る母国の惨状が交互に浮かんでいた。
彼は必死だった。
エンヴァという「魔女」が提示した、従属と引き換えの救済。
そのチケットを父に、王に届けなければならない。
書き終えた手紙に、王家の紋章を刻んだ封蝋を施す。
それは少年の魂そのものであり、数十万の民の命を繋ぐ、細い、けれど確かな希望の糸だった。
「……頼んだぞ」
レオンは、帝国の文官として入り込んでいた、かつての臣下の息子に手紙を託した。
だが。
「……またこれか。王子も、よほど暇と見えるな」
帝都の片隅、豪奢な私邸の奥。
共和国の宰相は、届けられたばかりのレオンの手紙を、封も切らずに指先で弄んでいた。
「宰相閣下、いかがいたしますか? エンヴァ様がもしこの手紙を処分している事を知れば……」
「フン、あの小娘が気にするのは『帳簿の数字』だけだ。……この手紙が王に届けば、戦争は終わってしまう。」
パチパチと、暖炉の中で爆ぜる音。
宰相は無造作に、レオンの渾身の書簡を火の中へと放り込んだ。
「君主は君臨すれども統治せず」
近代国家への脱皮という美名の下、宰相が恭しく差し出したその紙切れ——『共和国憲法案』を、エンヴァは退屈そうに、けれど迷いなく承認した。
それは、魔女が手にした絶対的な「権力」という重荷を、公に放り出す儀式でもあった。
「……いいわ。好きになさい。文字に書かないと自分の立ち位置も分からないなんて、人間って本当に不自由ね」
エンヴァは黄金色の瞳を細め、サインの済んだ羊皮紙を無造作に放り投げた。
議会制立憲君主国。
憲法の制定により、これまでエンヴァが「気分」で行ってきた権限移譲はすべて明文化され、彼女は「象徴」という名の黄金の籠に収まることになった。
「また独裁者が出たらどうするのですか? エヴァ様。せっかく貴女が更地にして、種を撒いたこの国が、また誰かの私欲で汚されるかもしれませんわ」
傍らで控えていたクラリッサが、懸念を込めて問いかける。
対するエンヴァは、窓の外で歓喜に沸く議事堂を眺め、可笑しそうに肩を揺らした。
「その時は、また最初からひっくり返すだけよ。何度でも、何度でも。……そのうち、馬鹿でもまともな国を運営できる仕組みが出来上がるでしょう?」
そう言ってはばからないエンヴァの顔には、統治への執着など微塵もなかった。
だが、自由を与えられた人間が最初にすることは、いつの時代も決まっている。
「……本日、議会は全会一致で決議した! 我が国の正当な権利を侵害し続ける、あの西の島国に対し——宣戦を布告する!」
議場に響き渡ったのは、平和への賛歌ではなく、新たな「略奪」への渇望だった。
軍事権が魔女の手を離れ、議会という名の「集団心理」に移った途端、彼らが選んだのは隣国への侵略だった。
「そんな……! 嘘だ、嘘だと言ってください、エヴァ様!」
レオンの絶叫が、廊下に虚しく響き渡る。
彼は、自分が必死に書いた手紙が届かなかった理由が、身内の裏切りではなく、この「正義」を語る議会による「計算」であったことを、まだ知らない。
「決まったことは覆らないわ、レオン。……それが『民主主義』という名の多数決の結果よ」
エンヴァは、悲しみに暮れる少年を冷たく、けれどどこか憐れむように見つめた。 彼女の指先から離れた軍隊が、今、少年の故郷へと牙を剥き始めていた。




