6生 ep.29
翌日の王都は、抜けるような青空に恵まれていた。
変装用のフードを深く被ったエンヴァと、その後ろを歩くクリフ。
二人の目の前には、かつての「革命政府」時代の血生臭い停滞が嘘のような、活気溢れる市場が広がっていた。
帝国の物流網は完璧に制御されている。
各地の新鮮な産物が滞りなく集まり、人々は明日への恐怖ではなく、今日食べるパンの香りに胸を躍らせていた。
「……いい匂いね。革命軍が広場でワーワー騒いでいた頃は、こんなに美味しそうなパンの香りはしなかったわ」
「そうですね。あの頃は、毎日ギロチンの鐘が鳴ってましたからね」
クリフが差し出したのは、露店で買った焼き立てのパンに新鮮な野菜と、肉汁滴る厚切りの肉を惜しみなく挟んだサンドイッチだ。
エンヴァはそれを一口、満足そうに頬張った。
「(……信じられない。あの『魔女』と呼ばれた彼女が、今はこんなに幸せそうにサンドイッチを食べている。この平和を、豊かな食卓を、彼女が独りで作り上げたんだ……!)」
感極まったクリフが、思わず熱を込めて呟いた。
「エヴァ様。本当に……感謝しています。貴女がいなければ、この国は今頃、瓦解して他国に切り売りされていたはずだ」
「……大袈裟よ、クリフ」
エンヴァは口元のソースを指先で拭うと、フードの奥の黄金色の瞳を細めた。
「別に私は何もやっていないわよ。ちょっとだけ、暴徒を扇動して、無能な連中の椅子を蹴飛ばしただけ。……平和なんて、単に『その方が儲かるから』維持しているだけの、副産物よ」
「……そういうところが、貴女らしいですけどね」
クリフは苦笑した。
だが、ふと風に煽られてフードが捲れた瞬間、その隙間から覗いたエンヴァの横顔に、彼は息を呑んだ。
十七歳。
成熟し始めた美しさと、透き通るような肌。
光を孕んだシルバーヘアが、春の陽光に愛されるように輝いている。
「(……綺麗だ。神格化された銅像なんかより、今、目の前で笑おうとしている彼女の方が、ずっと、ずっと……!)」
じっとエンヴァの横顔を見つめているクリフに
「……何、クリフ? その目、まさか私に恋でもしているのかしら?」
「あ、いえ!はい! そんな! めっそうもございません!」
見透かしたようなエンヴァの言葉に、クリフは心臓が跳ね上がり、しどろもどろになって後退りした。顔は耳の付け根まで真っ赤だ。
「ふふっ。冗談よ。……でも、そうね。例の肌着……まだ流通はさせていないけれど、あれは元々、貴方の出したアイディアだったわね。工場主任として、よくやってくれているわ」
エンヴァは一歩踏み込むと、戸惑うクリフの腕に、自分の腕を不意に絡めた。
彼女の控えめな胸から伝わる柔らかな感触と体温。
「ご褒美をあげるわ。今日は一日、私の『ショッピング』に付き合いなさい。荷物持ちも、支払いの計算も、全部任せるわよ?」
「え、エヴァ様……!? 腕、腕が……!」
「……何? 嫌なの?」
上目遣いで覗き込む、小悪魔のような微笑み。
その圧倒的な美しさと、不意に見せる「普通の少女」のような仕草に、クリフの思考回路は完全に焼き切れた。
「(……もう、どうにでもなれ! 報酬がこれなら、一生分の労働だって安すぎる!)」
顔を真っ赤にしたまま、操り人形のように歩き出すクリフ。
そんな彼を、エンヴァは楽しそうに引き連れて、色鮮やかな市場の奥へと消えていった。
市場での奔放な休日を終え、膨れ面で「どうして私も連れていってくれなかったんですか!」と詰め寄るクラリッサを、
「次は貴女の規格に合う特大のケーキを買ってきてあげるわ」
「私のサイズって何ですか!」
と騒ぐクラリッサをなだめすかし……。
ようやく訪れた独りの夜。
エンヴァは自室の天蓋付きベッドに身を横たえ、銀色の髪をシーツに散らして天井を見つめていた。
静寂の中、不意に脳裏をよぎったのは、昼間のクリフの真っ赤な顔——ではなく、幾つか前の前世で出会った一人の少年、セトの面影だった。
「……ふふっ。あの子も、本当に固くなって……かわいかったわね」
唇から零れたのは、数百年を隔てた愛おしさ。
かつて、エンヴァは町で売られていた奴隷であったセトを開放し、自らの「所有物」とした。
彼女の導きによって、名もなき少年はやがて一国の「王」へと登り詰めた。
そして、彼を玉座に据え、すべての盤面を整えたあの日。
エンヴァは、これまで自分が行ってきた献身の対価として——あるいは、忠実な所有物への「ご褒美」として、自らの身を彼に与え彼の子を産むことを決めたのだ。
王宮の奥深く、重厚な帳に守られた寝所。
そこに招かれた「王」の顔は、およそ一国を統べる者のそれとは思えないほど、情けなく、震えていた。
「エ、エンヴァ様……! 本当によろしいのですか? 本当に、私のような者が、貴女に触れても……本当ですか!」
「いいから、黙っていらっしゃい。貴方は私のもの、そして私は今、貴方に『報酬』を与えると決めたのだから。」
跪き、今にも泣き出しそうな顔で自分の手を取ったセト。
あの時の、指先から伝わってきた狂おしいほどの熱と、自分を仰ぎ見る忠実な犬のような瞳。
あの夜の記憶は、今でもエンヴァの魂に焼け付くように残っている。
それは愛という甘い言葉では括れない、支配と従属が溶け合った、彼女だけの秘かな蜜月。
「(……そうか。私、あのセトと、今のクリフを重ねていたのかしら)」
昼間、からかうように腕を組んだ時の、クリフの狼狽えぶり。
耳まで真っ赤にして、壊れ物を扱うように自分を意識していたあの気配。
それは、かつて「王」という名のエンヴァの奴隷だったセトが見せたものと、驚くほど似ていた。
「……十七歳、ね。」
エンヴァは月光に照らされた自分の指先を見つめ、小悪魔のような、それでいてどこか遠い目をした微笑を浮かべた。
帝国を買い叩き、神として君臨する魔女の心臓が、過去と現在を結ぶ奇妙な鼓動を刻んでいた。




