6生 ep.26
「で、正規軍様は何をしているの? さっさと東の砦を取り返しに行きなさい」
エンヴァは、後方で呆然と立ち尽くしていた老将へと伝令を走らせる。
その伝令を受けた老将は、天を仰いで戦慄した声を漏らした。
「……あり得ん。戦術も、兵站も無視して……たった一人の少女の『機嫌』だけで、敵軍が塵のように消えるというのか。我々が三ヶ月積み上げた『防衛』は、彼女にとってはただの足止めですらなかったのか……!」
老将の言葉に弾かれたように、我に返った正規軍は即座に動き出す。
主力を失い、指揮系統が崩壊し、さらに狂った市民兵に蹂躙された敵国の砦など、もはやもぬけの殻に等しい。
老将に率いられた軍は雪崩を打って東征し、奪われた国土を「回収」しに向かった。
一方、戦場に残された市民たちは、血に汚れ、憑き物が落ちたように互いの顔を見合わせ、震える手から包丁を落とした。
「……俺たち、何をしていたんだ? 」
「わからないわ。でも、エヴァ様の声が聞こえた瞬間、死ぬことが怖くなくなったの」
「ああ……。見てごらん、エヴァ様だ。あの方がいれば、もうお腹を空かせることも、誰かに怯えることもないんだ」
彼らは、瓦礫の上に立ち、進軍先を指し示す為の旗を持つ真紅の少女を、もはや人間ではなく、天から降り立った裁定者として仰ぎ見ていた。
この時の民衆を導く旗を振るエンヴァの姿は後世で高名となる画家に描かれた。
「戦争ごっこはこれでおしまい。……それぞれの家に帰って、生活を再開させなさい。私の『庭』をこれ以上汚すのは、許さないわ」
エンヴァの解散宣言。
つい先刻まで獣のように吠えていた者たちが、まるで良民の見本のように、静かにそれぞれの家路へとつき始めた。
その頃。
王都の喧騒から離れた屋敷で、フリーダは豪華な長椅子に身を投げ出し、喉を鳴らして笑い転げていた。
「くっ……ふふ、あはははは! なによ、エンヴァちゃん! 一体全体、何をやってるのよ!」
銀鈴を転がすような笑い声が、静かな部屋に響き渡る。
あれほど「目立つな」と、陰に潜んで生きろと言い聞かせていたはずの魔女。
それがどうだ。
一夜にして一国の軍隊を消し去り、暴徒を去勢し、共和国の「唯一神」として君臨してしまった。
「お見事だわ、本当にお見事。……偽善とパンで民衆を飼い慣らし、無能な議員に恥をかかせ、最後には正規軍に後始末をさせるなんて。最高に質の悪い、三文喜劇じゃない!」
フリーダは、手元にある最高級のワインを煽り、なおも笑いを止めない。
だが、その黄金の瞳の奥には、エンヴァが踏み出してしまった「戻れぬ道」への、一抹の愉悦と、それ以上の深い懸念が渦巻いていた。
「……さて。神様になっちゃった女の子は、次は何を買い叩くのかしら? このままじゃ、世界そのものに値札を付け始めそうね」
一週間後
東方の砦を奪還し勝利を掴んだ正規軍が王都へ帰還した。
だが、彼らが真っ先に向かったのは、色褪せた旗が翻る議事堂ではなく、煙突から細い煙を上げる「エンヴァの工場」であった。
ザッ、ザッ、ザッ……。
統制の取れた軍靴の音が、工場の前の石畳を規則正しく叩く。
3か月もの間祖国の防衛に徹し、その生き残りである精鋭たちが、今は一糸乱れぬ動きで工場の門前に整列していた。
その先頭に立つのは、数々の修羅場を潜り抜けてきた老将だ。彼は勲章に飾られた胸を張り、工場の古びた鉄門を見つめて、裂けんばかりの声で号令をかけた。
「——捧げ、銃!!」
一斉に跳ね上がる銃身。
金属音が重なり、冷たい緊張が辺りを支配する。
工場の二階、小さなバルコニーの扉が静かに開き、真紅のドレスを纏ったエンヴァが姿を現した。
「……騒がしいわね。何の用かしら」
見下ろすエンヴァの黄金色の瞳には、凱旋の喜びも、軍への労いも微塵も存在しない。
ただ、午後のティータイムを邪魔されたことへの、淡い不快感だけが揺らめいている。
「エヴァ閣下! 我ら共和国正規軍一同、此度の戦における閣下の御神威、しかとこの目に焼き付けました!」
老将は愛剣を抜き放ち、その剣先を地面へと向けた。
それは、軍人が最高位の主君に対してのみ行う、絶対的な服従の礼だ。
「もはや議会の言葉など、我らには届かぬ空疎な音に過ぎませぬ。……我らが命、我らが剣。これよりはすべて、共和国の守護神、エヴァ閣下のために捧げることをここに誓う!!」
背後に控える数千の兵士たちが、地鳴りのような咆哮を上げた。
「エヴァ閣下万歳!」
「救国の守護神に栄光あれ!!」
工場の門前は、もはや一企業の敷地ではない。
一国の軍隊が、民主主義という名の虚像を捨て、一人の少女を「王」として戴いた、歴史の転換点と化していた。
「……クラリッサ。彼ら、何を勘違いしているのかしら」
エンヴァは背後の影に控える親友に、呆れたような視線を送った。
「守護神なんて、管理コストがかかるだけの肩書き、頼まれたって要らないわ。……でも、せっかくの『良質な労働力』が向こうから首輪を持って並んでいるんだもの。追い返すのも、もったいないわね」
エンヴァは再び黄金の瞳を兵士たちへ向けた。
「いいわ。あなたたちを、私の軍隊と認めてあげる」
エンヴァの声が、工場の広場に凛烈と響き渡った。
その瞬間、共和国という国家の屋台骨が、音を立てて崩壊した。
兵士たちが守るべき対象は、もはや腐敗した議会でも、形骸化した憲法でもない。
バルコニーに佇む、黄金色の瞳をした主一人へと集約されたのだ。
「私のために戦い、そして、私の民を守りなさい。……無能な大人たちの野心のためにではなく、私の『庭』の静寂を維持するために、その剣を使いなさい」
「——ははっ! ありがたき幸せ!!」
老将を筆頭に、数千の兵士たちが一斉に地を這うように跪いた。
彼らにとって、それは屈辱などではなかった。
三ヶ月もの間、泥を啜り、仲間を失い、無策な議会に使い潰されかけていた彼らにとって、エンヴァの言葉は救済そのものだったのだ。
「閣下の御意志こそが、我らが正義! 我らが命、最後の一滴まで閣下の庭の肥やしといたしましょう!!」
老将の叫びに呼応し、地鳴りのような勝鬨が上がる。
エンヴァはそれを見届けることもなく、つまらなそうにバルコニーの奥へと歩みを進めた。
「……クラリッサ。これで、私の工場の周りに強力な『柵』ができたわね。餌(給料)は十分にあるわ。彼らには、これまで以上に効率的に働いてもらわなくては」
「……『軍隊』を『柵』と呼ぶのは、世界中で貴女だけよ、エヴァ。でも、これで本当に……この国に貴女に逆らえる人間はいなくなったわね」




