6生 ep.25
数百、あるいは数千単位で整然と編成されていた敵軍の部隊。
それが何十と組み合わさって言語な「陣形」となる。
彼らが長年磨き上げてきた「戦術」という名の芸術は、この大集団に、端から飲み込まれていった。
陣形も、兵法も、騎士道も。 すべてを物理的な質量と、死をも厭わぬ狂信が押し潰していく。
「……右よ。」
丘の上、エンヴァが長い柄の旗を振り右への突撃を促す。
すると、市民達は地響きを立てて右へうねり、逃げ場を失った重装歩兵たちを泥靴で踏みにじった。
彼女の旗が左を向けば、そこにある命を全てその体内へ取り込み、音を立てて「消化」する。
止める術など、この世界のどこにも存在しなかった。
これは戦争ではない。一人の少女という「脳」に直結した、巨大な単細胞生物による捕食作業だ。
「……すごいわね、エヴァ。人間って、神様を与えられると、ここまで獣になれるのね。」
クラリッサが戦慄した声を漏らす。
対照的に、エンヴァは黄金色の瞳を細め、蹂躙される敵軍を、まるで豊作の果樹園を眺めるかのようにうっとりと見つめていた。
「いい光景でしょう? 恐怖よりも『愛』の方が、よっぽど安上がりで強力な燃料になるのよ」
敵兵の個別な反撃によってこれまで数千の被害は出ていたが、エヴァ軍はそれを遥かに上回る被害を与えていた。
死を恐れぬ「イナゴの群れ」は槍に体を貫かれながらも突進し、抱き着き、動きを止める。
そこへ奇声をあげた女と子供が兵士の鎧の隙間から包丁をねじこむ。
やがて、敵本陣の奥深く、阿鼻叫喚の最中から天を割らんばかりの勝鬨が上がった。
「敵将、討ち取ったぁぁぁーーーーっ!!」
一人の少年兵が、返り血で真っ赤に染まった敵将の首を高く掲げ、喉が裂けんばかりに絶叫する。
その瞳には、手柄を立てた喜びではなく、神に捧げ物をした信徒の恍惚が宿っていた。
三ヶ月間、国家の命運を賭けて戦い、限界を迎えていた老将軍の防衛線。
それは、正規の軍隊ではなく、一人の少女を盲信する「狂った市民たち」の手によって、あまりに唐突で、あまりに凄惨な終結を迎えた。
勝利の熱狂は、一瞬にして暴虐の炎へと姿を変えた。
敵将の首が掲げられた瞬間、五万の民衆を繋ぎ止めていた「防衛」という名目は霧散し、後に残ったのは、血と勝利に酔いしれた巨大な獣の群れだけだった。
「終わったわね。……思ったより、早かったわ」
戦場の後方、瓦礫の山の上に立ったエンヴァは、黄金色の瞳を細めて戦場を見下ろしていた。
視線の先では、敵軍の残党を屠り終えた市民兵たちが、奇妙な静寂の後、一斉に王都の方角へと顔を向けた。
「……エヴァ。あの子たちの目、見て」
傍らに立つクラリッサの声が、微かに震える。
先刻までエンヴァへの狂信に輝いていた瞳は、今や剥き出しの「欲望」に塗りつぶされていた。
彼らが手にしているのは、敵から奪った鋭い剣や銃。
そして、その矛先はすでに、外敵ではなく、自分たちを虐げてきた「首都の内側」
——裕福な市民や、隠れ潜む特権階級の屋敷へと向けられている。
「次は、俺たちの番だ!」
「議員どもの財産を吐き出させろ! 白いパンを腹いっぱい食うんだ!」
「奪え! 壊せ! 全部、俺たちのものだ!」
誰かが叫んだ。
それが合図だった。
五万の暴徒が、地鳴りのような勝鬨を上げながら、王都の城門へと向かって濁流のように進軍を始める。
それは、外敵による侵略よりもはるかに無慈悲な、内側からの崩壊の始まりだった。
「……止めなくていいの? このままじゃ、王都は灰になるわよ」
クラリッサの問いに、エンヴァは唇をわずかに歪めた。
「灰になっても構わないけれど。……私の『庭』で、私が許していない略奪が行われるのは、気分が悪いわ」
エンヴァはゆっくりと、暴徒たちの先頭へと歩を進めた。
瓦礫の頂、月明かりを背にして立った彼女の姿に、気づいた者はまだ少ない。
「……騒がしいわね」
エンヴァが、小さく呟いた。
真紅のドレスを纏った少女が、その瞼を持ち上げた。
——刹那。
王都を揺るがし、天を衝かんばかりだった怒号が、まるで最初から存在しなかったかのように掻き消えた。
「……あ、が……っ!?」
叫び、狂い、血を啜ろうとしていた暴徒たちの喉が、目に見えない「何か」に締め付けられる。
それは物理的な重力ですらなかった。
魂の根源に直接叩き込まれた、抗いようのない「絶対遵守」の圧力。
空気が異質に震え、大気そのものが悲鳴を上げるような振動が戦場を駆け抜ける。
空間が裂け、世界の理が書き換えられたかのような衝撃に、エンヴァの軍勢も、生き残った敵兵も、等しく動きを止めざるを得なかった。
「……五月蝿いわね。勝利の余韻を楽しむのは勝手だけれど、私の『庭』でこれ以上の騒音は許可していないわ」
静まり返った戦場に、エンヴァの鈴を転がすような、けれど絶対的な支配を帯びた声が響く。
黄金色の瞳に射抜かれた者は、指先一つ動かすことさえ許されない。
彼らが先ほどまで捧げていた「愛」という名の狂信が、今は「恐怖」という名の鎖に変わり、その場に縫い付けられていた。
「(……ああ、やっぱり。エヴァ様にとって、この熱狂すらも『管理すべき数字』に過ぎないのね)」
傍らで膝を突き、荒い息を吐きながらクラリッサは確信した。
剣を振り上げた者はその姿勢のまま、叫ぼうとした者は口を開けたまま。
一歩でも動けば、魂ごと圧し潰されるという本能的な恐怖が、彼らの狂気を一瞬にして去勢したのだ。
「……勘違いしないで、大人しく町に戻りなさい」
静寂の中、エンヴァの声だけが、冷徹に、そして鼓膜に直接響くように通り抜ける。
魔女の威圧に、市民達は一転して怯える子犬のようにその場に平伏した。
略奪の炎は、少女の一瞥によって、跡形もなく鎮められた。
崩壊しかけた共和国の頂点に、名実ともに「神」として君臨した瞬間だった。




