表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生の魔女  作者: RUSA
117/159

6生 ep.24

老将が血を吐く思いで支え、異国の猛攻から共和国を守り抜いた三ヶ月間の「奇跡的」な均衡。




だが、精神論では埋められない物理的な限界が、ついにその牙を剥いた。


後方に届く報せは、もはや悲鳴ですらなかった。




弾薬の箱は空になり、兵士たちは馬の肉どころか革靴を煮て飢えを凌ぐ有様。


鉄の規律を誇った正規軍は、今や崩れ落ちる寸前の砂の城と化していた。




「……エヴァ様。国境第一防衛線、第4師団が沈黙しました。老将軍は自決を覚悟で、最後の白兵突撃を試みる構えです。食料も、彼らを動かす弾薬も……我が国の国庫には、もう一粒も残っていません」


クラリッサの報告は、事務的でありながら、隠しきれない破滅の予感を孕んでいた。




報告を聞いたエンヴァは、お気に入りの長椅子カウチに寝そべったまま、天井の装飾を眺めて小さく息を吐き出した。




「ハァ……。仕方ないわね」


その言葉は、国難に殉じる悲壮感とは無縁の、どこか日曜日の午後に予定外の来客を迎えるような、億劫おっくうさに満ちたものだった。




「せっかく老将軍が『愛国心』という名の低コストな燃料で三ヶ月も持たせてくれたのに。これ以上は、私の資産に傷がつくわ」




「重い腰を上げられる、ということでよろしいかしら? エヴァ様」


クラリッサが、期待を込めて手元の手帳を開く。




エンヴァはゆっくりと身を起こし、シルバーヘアを指先で整えながら、冷徹な黄金色の瞳を窓の外——5万の敵軍が待ち構える東方へと向けた。








相次ぐ敗戦、枯渇した備蓄、迫り来る鉄靴の音。




共和国を覆う空気は、もはや腐敗した沼のように重く、暗く沈んでいた。


人々は家々に閉じこもり、ただ「終わり」の瞬間を待っていた。




だが、その絶望の底で、王都の中心の広場に、一人の少女が立っていた。




真紅のドレスを纏い、冬の月光のようなシルバーヘアを風に遊ばせる。




めったに人前に姿を現さない「生ける女神」エンヴァの登場に、市民たちは吸い寄せられるように集まってきた。




王都の広場を支配していたのは、もはや敗北の絶望ではなかった。


それは、一人の少女が放つ、静謐にして絶対的な「支配」の熱量。




「……立ち上がりなさい。我が庭の市民たち」


エンヴァの声は、決して大きくはなかった。




けれど、魔力にも似た透明な響きは、冷え切った空気の中を波紋のように広がり、王都の隅々、人々の魂の深淵まで浸透していく。




「エヴァ様……!」




「ああ、なんと神々しい。……女神が、本当にお立ちになった!」




ひれ伏していた群衆が、一人、また一人と顔を上げる。




その瞳に宿るのは、もはや議会への期待でも、正規軍への信頼でもない。




「議会の大人たちは、貴方たちの父や夫を戦場へ捨て去ったわ。……けれど、私は違う。私は、貴方たちの空腹を満たし、冷えた夜に毛布を与えた。……さあ、次は貴方たちが私に『平穏』を献上する番よ。私の昼下がりを邪魔する害虫を、一匹残らず排除しに……」




エンヴァは一度、深く、スゥーっと息を吸い込む。




そして、その小さな身体からは想像もつかないほど、凛とした、烈火のごとき号令を叩きつけた。




「私に! 力を貸しなさい!!」




その瞬間——。


王都の地殻そのものが震えるような、地鳴りに似た咆哮が爆発した。




「おおおおおおおおおおおっ!!!」


「エヴァ様のために! 命を! 魂を捧げよ!」




湧き上がったのは、たったの二週間で首都近隣にまで広がり集まった五万の民衆。




だが、それはきらびやかな鎧を纏った正規軍ではない。エンヴァの城でスープを啜った未亡人、腰の曲がった老人、そして「エヴァ様のためなら死ねる」と目を血走らせた孤児たち。




さらには周辺の村々から、善人も悪人も、盗賊も商人も、すべてがエンヴァという名の「神」の元へ集った。




「錆びた包丁でも構わない! 石塊でも、農具でも、奴らを殴り殺せば同じよ! 私たちの『楽園』を汚す奴らを許すな!」




一人の未亡人が、血の滲むような声で叫び、錆びたなたを天に突き上げる。




「エヴァ様万歳アヴェ・エンヴァ!」


「我らが魔女に勝利を!」


その瞳に宿るのは、共通した狂信。 かつてエンヴァがパン一個で買い叩いた「魂」たちが、今、巨大な一つの意志となって、十万の正規軍さえも呑み込まんとする漆黒の波濤へと変貌していた。






戦場は、一瞬にして理性の介在しない「屠殺場」へと変貌を遂げた。


撤退する老将の軍勢を追い詰め、勝利の美酒に酔いしれていた連合軍。




その眼前に突如として現れたのは、整然とした陣形も、輝く鎧もない、ただの「暴徒」だった。




「……民の集団だと? 笑わせるな、農民共を蹴散らせ! 功績を挙げた者には、この国の女と土地を好きなだけ与えてやる!」




敵指揮官が下卑た嘲笑を浮かべ、腰の剣を抜こうとした——その刹那。




遥か後方の丘の上。真紅のドレスを風に棚引かせたエンヴァが、退屈そうに欠伸を噛み殺しながら、ふわりと白く細い指をくうで丸めた。




——グシャリ。


「な……が、はっ……!? か、は……っ」


叫ぶ間もなかった。




指揮官の胸の中で、心臓が不可視の強大な力によって、完熟した果実のように握りつぶされる。




一人、また一人。最前線の百人隊長から、後方で優雅に地図を眺めていた参謀まで。


敵軍の「知」と「命」を司る指揮系統の核が、次々と物理的な嫌な音を立てて内側から崩壊していく。




「し、指揮官が全滅だ! 閣下が倒れたぞ! 何が起きている、何が!!」


蜘蛛の子を散らすような混乱。




統制を失い、ただの「武装した集団」に成り下がった連合軍。


そこへ、エンヴァの背後に従っていた「飢えた群衆」たちが、獣のような咆哮を上げてなだれ込んだ。


「エヴァ様万歳アヴェ・エンヴァ!!」


「泥棒どもめ! 私たちのパンを!夫を返せえええっ!」




そこには陣形など存在しない。


洗練された戦術など知るはずもない。




ただ、狂ったように錆びた包丁を首筋に突き立て、悲鳴を上げる敵の頭蓋を石塊で叩き砕く。


奪い取った剣を振り回し、かつての「強者」たちを文字通り切り刻んでいく。




「(……ふふっ、いいわ。やっぱり『物理』で片付けるのが、一番手っ取り早いわね)」


丘の上で、エンヴァは自らの指先を見つめ、小悪魔のような微笑を浮かべた。




「……クリフ。見て、あんなに質の良い『鉄(鎧)』が転がっているわ。後で全部回収して、工場の材料にしなさい。……死体は、そうね。私の『庭』の、良い肥料になるかしら?」




地獄絵図と化した戦場を見下ろしながら、エンヴァの声はどこまでも清らかで、そして絶望的なまでに冷酷だった。




かつて誇り高き騎士たちが語った「戦場」の定義は、この日、完全に崩壊した。




そこにあったのは名誉ある決闘ではなく、生きるために牙を剥いた群衆による、凄惨なまでの「生活の防衛」だった。




「こいつ……子供!? どけ、このガキ共……うあああああああ!!」




屈強な体躯を誇り、数多の戦場を潜り抜けてきたはずの連合軍重装歩兵が、無様に大地を転がった。




その四肢には、十人もの少年たちが飢えた獣のように群がり、小さな、けれど鋭利に研がれたナイフを鎧の隙間にねじ込んでいた。




一度、二度、十度。


少年たちの濁りなき瞳に迷いはない。




彼らにとって、この「異物」を排除することは、パンをくれた「神様」への最も純粋な奉納に他ならなかった。




奇声を上げた女たちが、血泡のついた腕を振り回し、血に濡れた包丁を構えて四方八方から殺到する。




統制の取れた重装歩兵の鉄の陣形も、なりふり構わず股間や腹部を突き刺しにくる「生活の刃」の前には、ただの不自由な金属性の檻でしかなかった。




「ほれ、昔取った杵柄きねづかじゃな。……ホイッ!」


後方では、先ほどまで杖を突いていたはずの老人たちが、敵が恐怖のあまり投げ捨てていった強弓を拾い上げていた。


枯れ枝のような、しかし節くれ立った指が弦を引き絞る。


放たれた矢は、かつての猟師や国境守備隊としての記憶を正確になぞり、混乱の極致にある敵軍の中央、新たな指揮官として声を張り上げようとした男の喉元を、音もなく貫いた。




「……ここまで働いてくれるとは計算外ね。悪くないわ」


丘の上、エンヴァは黄金の瞳を細め、琥珀色の火花が散る戦場を俯瞰していた。


彼女が与えたのは、わずかなパンと、それ以上に巨大な「帰る場所」という依存先。


それだけで、無力なはずの民衆は、正規軍を圧倒する最凶の凶器へと変貌を遂げたのだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ