6生 ep.23
王都の経済は、音を立てて崩壊していた。
かつて優雅に舞踏会に興じていた貴族たちは、今や一塊のパンのために先祖伝来の土地を切り売りしはじめていた。
その土地、黄金色の瞳をした少女が、冷徹な手つきで拾い上げていく。
「エヴァ様……議会から、また使者が来ています。今度は要請ではなく、もはやなりふり構わぬ『懇願』ですわ。食料と、これまで以上の戦費の供出を、と」
クラリッサが差し出した書面には、もはや国家の威厳など微塵も残っていなかった。
そこに綴られているのは、ただの「悲鳴」だ。
「……ま、三ヶ月も戦場が膠着していればそうなるわよね。あのお爺さんもよく持たせているけれど、兵士の胃袋までは防衛できないもの」
エンヴァは窓の外、広大な中庭を眺めながら、退屈そうにティーカップを置いた。
「要求の三分の一だけを提供しなさい。残りは略奪するなり、無能な議員たちの私財を叩き売るなりして何とかするでしょう。……あまり甘やかすと、彼らは自分で考えることをやめてしまうわ」
「三分の一……。彼ら、また泣きついてくるわよ。でも、今の議会に貴女へ逆らえる人間なんて一人もいない。貴女にへそを曲げられたら、明日には彼らの首が物理的に飛ぶんだから」
クラリッサは呆れたように笑いながらも、次の報告書を広げた。
そこには、新しく「買い取った」広大な領地の目録が並んでいる。
「エヴァ、貴女の読み通りよ。生活に窮した旧貴族たちが、王都周辺の農地を城ごと投げ売ってきたわ。二束三文、いえ、パンの山と交換したも同然ね。今や貴女の直轄地は、かつての王家すら凌ぐ規模だわ」
「そう。……なら、扉を開けなさい。あぶれた者たちを、私の『庭』へ招き入れる時よ」
軍靴の音が近づき、国境が悲鳴を上げる中。
王都の郊外に佇む、かつて「伝統と血統」を誇った名門貴族の城が、その重厚な鉄門を音を立てて開いた。
そこへ雪崩れ込んだのは、華やかな夜会の客ではない。
徴兵によって夫を奪われた未亡人、戦火で息子を亡くし杖を突く老人、そして、親の温もりも家も失った孤児たちだった。
「ほら、押し合わないで並んで! 慌てなくても、エヴァ様が用意してくださった温かいスープとパンは、ここにいる全員分あるわ!」
かつて舞踏会が開かれた壮麗な広間で、イメルダが声を張り上げる。
その隣では、クラリッサが巨大な樽から湯気の立つスープを汲み出し、凍える民衆の手へと次々に渡していた。
「……信じられないわ。公爵が先祖代々の肖像画を飾っていた壁に、今は洗濯物が干されているなんて」
クラリッサが、スープの湯気の向こうで、窓枠に掛けられた粗末な布を眺めて苦笑した。
「エヴァ様に言わせれば、貴族のプライドなんて、彼女にとっては暖炉の薪以下の価値しかないのよ」
「……家の無い孤児と未亡人は、二階の客室を適当に使いなさい! 人数分の毛布と、清潔な肌着も配るから!」
イメルダの号令で、豪華な絨毯の上を泥靴の子供たちが走り回る。 エンヴァにとって、手に入れた各地の邸宅や宮殿は、もはや権威の象徴ではない。
それは効率的な「シェルター」であり、貴重な「労働資源の保存倉庫」に過ぎなかった。
「(……ひどい顔ね、どいつもこいつも痩せこけていて)」
広場を見下ろすバルコニーの影で、エンヴァは独り、その光景を黄金色の瞳に映していた。
真紅のドレスが風に翻る。彼女にとって、この城を民衆に開放したのは慈悲ではない。
「……クリフ。スープの味はどう? 塩分が足りないと、明日の労働効率が落ちるわよ」
「最高ですよ、ボス。みんな、貴女のことを『救いの女神』だと拝んでいます」
「……ふん、勝手に言わせておきなさい。」
エンヴァは、不機嫌そうに、けれどどこか満足げに、真っ白なパンを頬張る子供たちの姿を見下ろした。
貴族たちが築き上げた「虚飾の歴史」が、魔女の手によって、温かなパンの香りが漂う「生きるための拠点」へと塗り替えられていった。
灰色の城の広間は、「助かった」と安堵するすすり泣きと、それ以上に温かな「生」の音に満たされていた。
かつて貴族たちが冷徹な権威を誇示した大理石の床に、今は泥だらけの靴を履いた民衆が膝を突き、一人の少女を仰ぎ見ている。
それは、絶望の淵にいた者たちにとって、まさに神の再臨にも等しい光景だった。
「……ああ、エヴァ様! 夫が戦死して、明日には路頭に迷うところでした。この御恩は一生、いえ、死んでも忘れません……っ!」
赤子を抱えた未亡人が、震える手でエンヴァの真紅のドレスの裾に縋り付き、溢れる涙を隠そうともせずに叫ぶ。
その足元では、小さな少年が宝石でも扱うかのように、真っ白なパンを抱きしめていた。
「これ、本物の白パンだ……! お姉ちゃん、見てよ、こんなに柔らかいよ!」
「ありがとう、エヴァ様! 僕、何でもするよ! 畑仕事でも、お掃除でも、兵隊でも! 何だってやるから、見捨てないで!」
泥だらけの子供たちが、エンヴァを「救世主」と呼んで、その黄金色の瞳に縋るような光を宿す。
エンヴァは、屈み込んで少年と視線を合わせると、聖母のような穏やかな、慈愛に満ちた微笑みを浮かべた。
「あなたには兵隊はまだ早いわね。……まずはお腹を一杯にしてちょうだい。そうしたら、お母さんと一緒に農作業のお手伝いをしてくれるかしら? 私の畑には、貴方のような元気な手伝いが必要なのよ」
「うん! 僕、頑張るよ! エヴァ様のために!」
エンヴァは少年の泥のついた頬を、汚れも厭わず慈しむように撫でた。
その光景を見た民衆の間から、地鳴りのような感謝の唱和が巻き起こる。
だが、彼女の黄金色の瞳の奥、網膜に焼き付いた「計算式」を悟る者は、この場に一人としていなかった。
「(飢えた子供一人の心をパン一個で買い取れば、将来、彼らは私のために文句も言わずに働き続けてくれる。……兵士にして使い潰すなんて、なんて非効率な資源の無駄遣いかしら)」
彼女の手のぬくもりは、確かに子供たちの心を救っていた。
だがその正体は、十年後の労働力を今のうちに「最安値」で囲い込む、世界で最も冷徹で、かつ最も優しい「買収」だった。
城のバルコニーから見渡す限り、そこにあるのはすべてエンヴァの「庭」だった。
春に種を撒けば、秋には大地が沈み込むほどの多大な収穫が約束されている。
かつて荒廃していたはずの土地は、エンヴァが持ち込んだ投資と、何より「飢えを逃れた民」の執念によって、息を吹き返していた。
「……いいわ。老人たちには日当たりの良い温室を、子供たちには栄養価の高いミルクを与えなさい。一滴も無駄にしてはダメよ」
エンヴァは、手元の台帳から目を離さずにクリフへ命じた。
彼女は、自らの資産であるこの「庭」において、働けない老人や年端もゆかぬ子供たちの世話を率先して行った。
それは一見、聖女のような慈悲に見えたが、その本質は冷徹な「人質の管理」に他ならなかった。
「……ボス、老人たちも泣いて喜んでいます。『エヴァ様は、役に立たなくなった自分たちまで見捨てない慈悲の神だ』と」
「ふん、役に立たない? 冗談じゃないわ。彼らがそこに健やかに存在しているだけで、私の『働き手』たちは死に物狂いになるのよ」
エンヴァは窓の外、広大な農地で腰を屈めて働く未亡人や孤児たちを黄金色の瞳に映した。
彼女たちは、城に預けられた我が子や老いた両親を想い、この「楽園」から追い出されないよう、文字通り身を削って働いた。
もし成果が上がらなければ、最愛の家族が明日食べるパンを失うかもしれない——その無言の圧力が、どんなムチよりも鋭く彼女たちを打ち据える。
「……人質、ですか」
後ろで控えていたクリフが、震える声で呟いた。
「ええ。最高の動機付けでしょう? 恐怖で縛れば反乱が起きるけれど、『幸福』という名の人質で縛れば、彼らは肉親への愛の為に自ら進んで私のために汗を流すわ。……見てなさい。今年の秋の収穫が楽しみね」
エンヴァは、聖母のような穏やかな微笑みを湛えたまま、台帳に冷酷な数字を書き加えた。
そこは、飢えのない天国。
同時に、一歩でも外れれば死が待つ、世界で最も甘美で強固な「黄金の監獄」だった。
「クラリッサ、この農場の働き手を十の集団に分けなさい。それぞれに公平な面積の土地と種、肥料を与えて……そうね、秋までの『競争』をさせるのよ」
エンヴァは手元のアフタヌーンティーに角砂糖を一つ落とし、溶けてゆく結晶を眺めながら告げた。
その鈴を転がすような声は、聞く者によっては死神の宣告よりも恐ろしく響く。
「最も収穫量の多かった集団には、通常の倍の給金を。そして——」
そこで言葉を切り、エンヴァは黄金色の瞳を細めた。
「最も収穫が少なかった集団は、即座にここから追い出しなさい。どこか、別の——もっと条件の悪い僻地の農場へね」
隣に控えていたクラリッサは、その指示の真意を瞬時に汲み取り、口角を滑らかに上げた。
「……表向きには、その移された集団は『無能ゆえに楽園を追放された』と他の者たちに触れ回りますわ、エヴァ様。……ええ、彼らが実際には別の開墾地に送られるだけだとしても、残った者たちの目には『地獄への片道切符』に見えるはずです」
「そう、分かってきたわね、クラリッサ。」
エンヴァは満足げに頷き、紅茶を一口啜った。
「倍の給金という『ご褒美』と、追放という『崖』。その間に立たされた人間が、どれほど必死に働き、収穫を積み上げるか……。見ものだと思わないかしら?」
「左様でございますね。……彼らはもはや、隣人を助ける余裕などなく、ただ自分の集団が『最下位』にならないことだけを祈って働くでしょう。……実に、エヴァ様らしい、ほんとよくこんな事思いつくわね」
二人の視線が、眼下の農地で交錯する。
そこはもはや単なる農場ではない。人間の生存本能を極限まで搾り取る、巨大な「選別場」へと変貌を遂げていた。




