6生 ep.15
月すらも厚い雲に隠れた、呪わしいほどの深夜。
静まり返った王都の石畳を叩く、不規則で焦燥に満ちた蹄の音が、祈るような静寂を無慈悲に切り裂いた。
それは王国の終焉を告げる、あまりにも孤独で無様な敗走のメロディであった。
「……逃げたのね。あの『自称・神の代理人』様たちは」
工場の窓辺、闇を見つめるエンヴァの唇から、凍てつくような呟きが漏れた。
漆黒の闇の中を、一台の馬車が狂ったように駆けていく。
中に乗っているのは、この国の象徴であったはずの王と王妃、そしてまだ幼さの残る王女だ。
目指すは王妃の母国である隣国。
馬車を操る御者は王妃の愛人。
貴族と聖職者の代表による「素人統治」に絶望していた民衆の中には、それでもなお、古き王権の復活を願う者たちがいた。
王を議会の重石とし、国を立て直そうとする最後の一縷の望み。
だが、その希望は今、王族自らの「逃亡」という名の裏切りによって、救いようのない塵へと変わった。
「エヴァ、聞いた? あの高貴な方々の末路を」
数日後、執務室に現れたクラリッサが、吐き捨てるように告げた。
彼女の瞳には、かつて「上位者」に向けられていた敬意の破片すら残っていない。
あるのは、自分たちを見捨てた臆病者への、底知れない軽蔑だけだ。
「捕まったそうよ。あと数キロで国境、っていう絶妙な場所でね。馬車の車輪が泥に嵌まって動けなくなったところを、追いかけてきた自警団に囲まれたんですって。滑稽でしょう?」
「……そう。散々偉そうにしておいて、国民と心中する気概もなかったのかしら。王冠を被るには、あまりにも首の力が足りなかったようね」
エンヴァは手元の書類から顔を上げることなく、冷え切った声で応じた。
「自分たちだけが助かろうとして、国民という名の『資産』を投げ捨てた。……その負債は、命で払ってもらうしかないわね」
「そうね。議会の連中、手ぐすね引いて待ってるわよ。自分たちの無能を棚に上げて、すべての罪を王に被せるつもりでしょうし」
「……いいわ。処刑も早そうね。民衆の怒りを逸らすには、ギロチンの音以上に心地よい音楽はないもの」
エンヴァの黄金色の瞳が、窓の外で処刑台の準備を始める群衆の影を捉え、わずかに細められた。
王都の広場を埋め尽くした民衆の熱狂は、もはや理性の範疇を遥かに超えていた。
それは数世紀にわたる抑圧が弾け飛んだ、どす黒い歓喜の爆発だった。
「……始まったわね」
エンヴァは、その輝く銀髪を隠すための外套を深く被り、狂乱する市民の波に紛れて処刑台の片隅に立っていた。
隣では、クラリッサが顔を強張らせ、押し寄せる熱気に耐えるように肩を震わせている。
ーー王族の処刑
かつては「神聖不可侵」と謳われ、その姿を見るだけで平伏すべきと教え込まれてきた王族たち。
だが、今、舞台の上に引きずり出された彼らの姿に、かつての威厳など微塵も残っていない。
「お父様……! お父様、嫌っ、離して! お願い!!」
若き王女の悲鳴が、広場の騒音を切り裂いて響き渡る。
その細い腕は兵士に無慈悲に掴まれ、地面を引きずられていた。
「あなた! ああ、神よ……! どうか、どうか夫をお助けください!!」
王妃は乱れた髪を振り乱し、処刑台の露露に濡れた床に膝をついて慈悲を乞う。
その姿は、かつて宮廷で優雅に微笑んでいた「国母」ではなく、ただ死を恐れる一人の女に過ぎなかった。
「……すまぬ。……すまぬ……。私の……私の無能が、お前たちを……」
処刑台の「穴」に首を固定された王の口から漏れたのは、国を統べる者の言葉ではなく、ただ家族を地獄へ道連れにする男の、弱々しい後悔の念だった。
「すまぬ……。すべて、私の……」
許しを請うその言葉さえ、熱狂する群衆の怒号に掻き消されていく。
そして、執行人がレバーを引いた。
——シュルッ。
無機質な、あまりにも軽い風切り音。
次の瞬間、重厚な鉄の刃が重力に従い、吸い込まれるように滑り落ちる。
「……あっけないものね、クラリッサ」
隣で息を呑み、思わず目を背けた親友の耳元で、エンヴァは氷のように冷たい声を落とした。
鈍い音と共に、石畳を転がった首。 そこから溢れ出し、白かった王族の装束を汚していく鮮やかな赤。
それは、自分たち市民が流すものとなんら変わらない、鉄の臭いのする、ただの「人の血」だった。
「神に選ばれた青い血なんて、存在しなかった。……ただの、ありふれた液体よ」
エンヴァは黄金色の瞳でその凄惨な光景を凝視し、退屈そうに唇をわずかに歪めた。
鉄の刃が断頭台を叩き、一つの歴史が物理的な衝撃と共に両断された。
広場を埋め尽くす民衆の歓声は、もはや祝祭の域を超え、理性を焼き尽くす狂乱へと昇華している。
「神聖だの、特別だの……よくもまあ、あそこまで偉そうに言っていたものね」
外套のフードを深く被ったまま、エンヴァは冷え切った声で吐き捨てた。
石畳を濡らす鮮血は、夕闇に溶け込み、黒ずんだシミへと変わっていく。
つい先刻まで「神の代理人」を自称していた男の体から溢れたそれは、何の変哲もない、ただの鉄臭い液体に過ぎなかった。
「……ねえ、エヴァ。王がいなくなったこの国は、これからどこへ向かうのかしら?」
隣で震える声を上げたのは、クラリッサだ。
彼女の瞳には、熱狂する群衆への恐怖と、支柱を失った未来への果てしない不安が入り混じっている。
「どこへも行かないわ。ただ、足踏みをするだけよ」
エンヴァは、返り血を浴びて笑う処刑人たちの背中を、黄金色の瞳で冷淡に射抜いた。
「飼い主を失った犬たちが、次の餌場を求めて互いの喉笛を噛み切り合うだけ。……彼らが求めているのは『自由』なんて高尚なものじゃないわ。ただ、自分たちを縛っていた首輪が外れた解放感に酔い、次は誰に首輪を嵌めるかを品定めしている。それだけのことよ」
「そんな……。やっと手に入れた勝利なのに、また争いが始まるっていうの?」
「勝利? 違うわ。これは単なる『破産』よ。国家というシステムを支えていた幻想が底をついたから、清算が行われただけ。」
エンヴァは一度だけ、血に染まった断頭台を一瞥し、背を向けた。
沸き立つ民衆の背後に、エンヴァは「魔女」の影を探した。
この惨劇を特等席で眺め、哄笑しているはずの、あの傲慢な女の姿を。
だが、そこにはただ、自分たちの欲望と残酷さに酔いしれる、愚かな大衆の群れがあるだけだった。
「……行きましょう、クラリッサ。ここはもう、ただのパーティーの会場よ」
一つの時代が、首を落とされる音と共に終わった。
少女は群衆に紛れ、その喧騒を背に、新たな「帳簿」を書き換えるべく闇へと消えていった。




