6生 ep.14
王宮から届いた羊皮紙は、金箔で縁取られた豪華なものだった。
救国の英雄、聖域の主、そして「男爵」の称号。
だが、エンヴァにとってそれは、獲物を誘い出す「罠」にしか見えなかった。
「……ふふ、馬鹿げているわ。男爵? 私に、あの腐りかけた王座の脚になれと言うのかしら」
エンヴァは、差し出された叙爵の親書を、読み終える前に暖炉の火へと放り込んだ。
炎が青白く燃え上がり、救国の栄誉は一瞬で灰へと姿を変える。
「エヴァ、いいの? 爵位があれば、これからの商談ももっと有利になるかもしれないわ。王党派の後ろ盾があるっていうのは、まだこの国じゃ意味があることよ」
書類の整理をしていたクラリッサが、少しだけ心配そうに眉をひそめる。
13歳にして工場長を務める彼女の瞳には、現実的な損得勘定が宿っていた。
「逆よ、クラリッサ。今この泥舟(王国)の片棒を担げば、次に沈むのは私よ。……民衆の目は節穴じゃないわ。同じ市民でありながら、私たちがこの特需で肥え太っていることを、彼らは憎んでいる。そこに『貴族』なんてラベルを貼ってみなさい。明日の朝には、工場の門に火をつけられるわよ」
エンヴァは窓の外、さらに疲弊し、殺気立った街の様子を見下ろした。
王都の経済は死に体だった。
富めるブルジョワと、今日を生きる術を失った市民の格差は、もはや修復不能なほどに開いている。
「……王も必死ね。足りない金を補うために、ついに貴族や聖職者の財布にまで手を突っ込もうとした。当然、あの大食漢たちが黙っているはずがないわ」
「そうね。議会は荒れているわ。貴族も聖職者も、それから私たちの『お得意様』である市民階級の有力者たちも……みんな結束して、王の権限を削り取ろうとしている。……これからは、一人の王ではなく、会議室に座る有象無象が国を動かす時代になるわね」
クラリッサの言葉に、エンヴァは黄金色の瞳を細め、満足げに口角を上げた。
王冠が砕け、代わりに議場に並んだのは、絹の法衣と古びた勲章を下げた「素人」たちだった。
民衆は「民主化」という甘い言葉に酔いしれたが、その酔いが冷めた後に待っていたのは、王政時代よりも過酷な飢えという名の現実だった。
「……見て、エヴァ。これが今日発行された新しい金貨よ。表面が妙に白っぽくて、手触りも軽い。まるで子供の玩具ね」
クラリッサが、不快そうに一枚の硬貨をデスクに放り出した。
工場の事務や交渉を完璧にこなす彼女の顔には、この国の経済に対する深い失望が刻まれている。
「貴族と聖職者が手を組んで、最初に行ったのがこれよ。
金貨の金の含有量を減らし、数を増やして『富』を偽造した。……自分たちの贅沢と、終わりの見えない戦争を続けるためにね」
エンヴァは、手元の帳簿から目を離さずに冷たく鼻を鳴らした。
「素人支配の極致ね。市場に溢れたのは価値のない金色のゴミ。その結果、パンの値段は跳ね上がり、民衆の財布は空になった。……王一人が贅沢をしていた頃の方が、まだマシだったんじゃないかしら?」
「街は地獄よ。民主化の旗を掲げていた市民たちは、今や『パンを寄越せ』『戦争をやめろ』と叫びながら、議事堂に火を放とうとしているわ。……エヴァ、私たちの『財閥』への風当たりも強くなっている。どうするつもり?」
エンヴァは、ようやくペンを置き、黄金色の瞳をクラリッサに向けた。
彼女の背後には、内乱の混乱期に二人が買い集めた広大な耕作地と、数えきれないほどの家畜のリストがある。
通貨を信じず、形ある「現物」に投資してきた彼女たちの資産は、インフレの荒波の中でも微動だにしていなかった。
「適度に、水を撒きなさい。……ただし、溺れさせない程度にね」
「水、っていうのは……配給のこと?」
「ええ。民衆の不満の火が、この工場に燃え移らない程度に小麦を放出し、家畜を屠りなさい。民衆に『エンヴァ様は私たちの味方だ』という錯覚を持たせ続けるの。……議会の無能な豚たちが民衆から税という名の油を注ぐなら、私はその隙間で、慈悲という名の打ち水を打つしかないわね」
エンヴァは優雅に立ち上がり、窓の外で揺れる民主化の松明を見下ろした。
「彼らが争い、疲弊し、最後に残るのが何かわかる? クラリッサ。……それは王冠でも議会でもない。腹を満たすパンと、凍えないための服。それらを独占している私たちが、この国の真の『法』になるのよ」
工場の執務室。
ある日
豪奢な装飾を排し、代わりに実用的な暖炉と、微かな「生活の匂い」が漂うその場所に、市民議会の代表者が汗を拭いながら立っていた。
「……ぜひ、再考を! エンヴァ様、貴女の財力と、あの『エンヴァ軍』を動かした民衆への影響力があれば、この腐敗した議会を浄化し、真の民主化を成し遂げられるのです!」
市民議員の男は、必死の形相で熱弁を振るっていた。
彼の背後には、署名と蝋封で埋め尽くされた「議員就任要請書」が置かれている。
だが、エンヴァは男の顔を見ることさえしなかった。
彼女は暖炉にかけられた小さな鉄鍋を覗き込み、木匙で静かに中身をかき混ぜている。
「浄化? 民主化? ……言葉だけは立派ね。でも、その実態は屑同然の金貨を発行して、民衆の腹を空かせているだけの素人集団じゃない」
「そ、それは……! だからこそ、貴女のような実務の天才が必要なのです! 貴女が議席に座れば、市場は安定し、暴徒も鎮まる。どうか、この国を救うために!」
傍らで控えていたクラリッサが、困ったように肩をすくめた。
彼女の手には、次なる経済制裁……もとい「市場介入」の分厚い計画書が握られている。
「エヴァ、どうする? 議員になれば、工場の法的な保護も完璧になる。……もっとも、毎日あの騒がしい議事堂に通って、無能な大人たちの言い訳を聞き続ける羽目になるけれど」
エンヴァは鍋を火から下ろすと、ようやく黄金色の瞳を議員の方へ向けた。
その瞳は、国家の命運を語る男を、まるで道端の石ころでも見るかのように冷たく射抜いた。
「お断りするわ」
「な、なぜです!? 名誉も権力も、すべて貴女の思いのままなのですよ!」
「理由は単純よ」
エンヴァは、小皿に盛った「煮戻したばかりの豆」を一口運び、満足げに目を細めた。
「そんなことに首を突っ込んでいたら、豆を煮戻す暇さえなくなってしまうわ」
「……は? 豆……?」
絶句する議員を無視して、エンヴァは淡々と言葉を継ぐ。
「乾燥させた豆を、時間をかけてゆっくりと水に戻し、柔らかく煮上げる。これには忍耐と静寂が必要なの。……怒号が飛び交う議事堂で、誰が私にこの穏やかな時間を保証してくれるのかしら? 」
「そ、そんな……国家の危機に、豆などと……!」
「私にとっては、この一皿の出来栄えの方が、貴方たちの議会の存続よりも遥かに価値がある。……クラリッサ、この方を門の外へ。これ以上騒がれると、味がボケてしまうわ」
「はいはい。……さあ、議員様。お出口はこちらです。エヴァの『おやつ』の邪魔をすると、明日の市場から小麦粉が消えることになりますよ?」
クラリッサに促され、議員は幽霊でも見たような顔でふらふらと退室していった。
再び静寂が戻った執務室で、エンヴァはもう一粒、豆を口に含んだ。
「……ふふ。いい塩梅だわ、クラリッサ。やっぱり、政治なんていう『煮ても焼いても食えないもの』に関わるより、ずっと有意義ね」
議事堂に居座る「素人の為政者」たちの創造力は、国を豊かにするためではなく、いかにして民衆の財布に指を突っ込むかという一点においてのみ、神懸かり的な冴えを見せていた。
「……ねえ、エヴァ。これ、冗談だと言ってほしいのだけれど」
クラリッサが、力なく笑いながら一枚の布告文をデスクに置いた。
もはや驚愕を通り越し、呆れ果てたような顔だ。
「今度は何? 『呼吸税』でも始めたのかしら」
エンヴァは、手元で静かに煮え立つ豆の鍋を気にかけながら、横目でその紙を追った。
そこには、正気を疑うような新税の羅列があった。
「『窓税』に『煙突税』。家を建てる際に窓が多ければ贅沢品と見なし、煙突が立っていれば暖を取る余裕があるとして徴収するそうよ。……極めつけはこれ、『ひげ税』に『石鹸税』。清潔であることさえ、彼らにとっては課税対象なんですって」
「……石鹸? 衛生を放棄しろと言うのね。パンを焼くことにさえ税をかけるなんて、彼らは民衆を飢えさせて殺すのが目的なのかしら。これでは、ネズミから小銭をむしり取ろうとするドブネズミと変わりないわ」
エンヴァは呆れたように息をついた。
窓を塞げば光を失い、煙突を壊せば煤煙が室内に満ちる。
石鹸を使わなければ疫病が流行るだろう。議会の「素人」たちは、目先の数字を合わせるために、国を支える「生活」そのものを破壊していた。
「街はもう限界よ。民衆は窓を板で塞ぎ、ひげを剃り落として、暗い部屋で震えているわ。……エヴァ、これでもまだ、あの議員の椅子は『豆を煮る時間』より価値がないかしら?」
「…………」
エンヴァは、パチパチと爆ぜる暖炉の火を見つめ、珍しく沈黙した。
かつて自分が蹴り飛ばしたあの議席。
もし自分がそこに座っていれば、少なくともこれほど「効率の悪い」略奪は行わなかっただろう。
(……これは、私がやったほうがマシだったかしら?)
不覚にも、そんな思いが脳裏をよぎる。
自分が支配すれば、もっと美しく、もっと合理的に、そしてもっと静かにこの国を「経営」できたはずだ。
「……ふふ。よっぽどね、クラリッサ。この私に、あんな泥沼への参加を再考させるなんて、彼らはある種の手品師だわ」
「そうね。でも、彼らがその手品で民衆の忍耐を消し去ってしまったら……次は、この工場の壁を越えてくるのは、パンを求める市民ではなく、松明を持った兵隊たちかもしれないわよ」
エンヴァは、ゆっくりと鍋を火から下ろした。
豆は完璧なまでに柔らかく煮え戻っていたが、窓の外から漂ってくるのは、もはや芳しい料理の匂いではなく、爆発寸前の「不満」という名の硝煙の香りだった。




