6生 ep.12
月日は残酷なまでに平穏を削り出し、かつての「売られた少女」と「泣き虫の友人」は、今やこの街の経済を回す二つの歯車となっていた。
エンヴァとクラリッサ。
二人が13歳を迎えたその冬、街を包む空気は二人への敬意を孕んでいるように見えた。
「エヴァ、見て。……フリーダ様からよ」
13歳になり、少しだけ大人びた仕草で手紙を差し出したのは、今や工場長として百人の孤児を束ねるクラリッサだ。
その指先には、かつての重労働の痕跡ではなく、上質な絹とインクの香りが染み付いている。
差し出されたのは、真鍮の封蝋で閉じられた、重厚な新年の舞踏会への招待状。
「……フリーダから? ああ、例の『新年のパーティー』ね」
エンヴァは、執務室の窓から雪に煙る工場群を見下ろしたまま、面倒そうに鼻を鳴らした。
かつてはフリーダの「お気に入り」として、あるいはその庇護下にある「駒」として扱われていた。だが、今のエンヴァに届いたこの手紙に、フリーダの個人的な熱量はない。
これは、この街の真の支配者たるフリーダが、対等、あるいは「無視できない有力者」の一人として、機械的に送りつけてきた公式な召喚状だ。
事実、エンヴァを選んだのはフリーダの執事の一人であって、彼女自身はリストを見てもいない。
「呼ばれるのなら、仕方ないわね。あの魔女を待たせて、新年の早々から無駄な火種を作るのも趣味じゃないわ」
気が進まないまでも、いつもの真紅のドレスに身を包み馬車から降り立つ。
そこは、この国の経済の血液とも言えるあらゆる流通をその傘下に置いた巨大企業の中心。
その新年パーティー会場に姿を現したエンヴァに
「あら……。どういう風の吹き回しかしら?」
豪華な扇子で口元を隠しながらも、フリーダの瞳には隠しきれない驚愕が走った。
形式的に送った招待状。
まさか、自領の「聖域」に引きこもっていたあの少女が、これほど堂々とした足取りで、大人の社交場を蹂躙しに来るとは。
「あなたが呼んだから来たのよ、フリーダ。用事がないのなら、私は帰るわ。」
「ふふ、相変わらず可愛げのない口ね。……せっかく来たのだから、上でお話ししましょうよ。ここの空気は、あなたには少し『騒がしすぎる』でしょう?」
二人の魔女は、喧騒を見下ろす静謐なラウンジへと移動した。
階下では有力者たちが、若き工場主の背中を畏怖と羨望の眼差しで追っている。
「お酒は……? 飲む方かしら?」
「果実酒を頂くわ」
家臣が恭しく運んできた深紅の果実酒。
エンヴァはそれを優雅に傾け、黄金色の瞳を細めた。
「それで? あなたの『連れ』はどこにいるの? ……あのお姉様は?」
フリーダは、面白そうに目を細めて答えた。
「お姉様? ……わからないわ。どこで何をしているのかしらね。」
「……あの帝国を築き上げたのも、お姉様。路地裏の泥の中に産み落とされた私を拾い上げ、魔女として完成させてくださったのも、あのお姉様」
フリーダは、手にした琥珀色のグラスを見つめ、うっとりとした、少女のような陶酔をその表情に浮かべた。 その言葉を聞いた瞬間、エンヴァの脳裏に、かつて対峙した「皇帝」の歪んだ顔が蘇る。
(……やはり、そういうことだったのね)
あの時の皇帝が、幼い自分を見ていた怯えの正体。
彼はエンヴァの瞳の中に、帝国の背後で糸を引く「黄金の魔女」の影を見ていたのだ。
己を支配し、国を弄ぶ、人智を超えた存在への恐怖。
「それ以来、何百年……。私はずっと、あのお姉様に抱かれて生きてきたのよ」
「そうね。そういう生もあるかもしれないわ。……否定はしないわよ」
エンヴァは冷めた口調で応じた。 誰かの庇護下で、永遠とも思える時間を揺りかごの中で過ごす。
それは、ある種の魔女にとっては究極の幸福なのかもしれない。
「ねえ、エンヴァちゃん。……もし、あなたが私の元に来てくれるなら。かつてお姉様が私にしてくださったように、あなたにも『永遠の安息』と『永遠の快楽』を約束してあげるわ、どう?」
フリーダの視線が、誘惑するようにエンヴァを捉える。
それは、かつて「お姉様」がフリーダに与えたという深い愛の提案だった。
「――それはお断りするわ」
エンヴァは、迷うことなく、一滴の揺らぎもなく即答した。
果実酒のグラスをテーブルに置き、背筋を伸ばして眼前の魔女を見据える。
「あら、残念。……結構本気だったのに、可愛くない子ね」
フリーダは軽く肩をすくめ、再びグラスに口をつけた。
「……『先輩』が言っていたわ。魔女の死について、何か知っていることはあるかしら?」
エンヴァの問いに、フリーダは黄金色の瞳をわずかに伏せた。
その長い睫毛が、微かな影を頬に落とす。
「そうね……。あのお姉様なら、もうすぐかもしれないわね」
その言葉を聞いた瞬間、エンヴァの背筋に冷たい戦慄が走った。
かつて、王宮の冷え切った廊下で一度だけすれ違った「お姉様」。
あの方の周囲だけは、物理法則さえも意味を成さないようだった。
一歩歩くたびに空気がひび割れ、視界が歪むほどの圧倒的な魔力。
逆立ちしたって届かない、神に近い領域に棲む、化け物。
「もしも……」
フリーダが、これまでにないほど柔らかく、そして切実な声音で続けた。
「もしも、あなたがいつか、どこかであの方に出会うことがあったなら。……妹が、私が心から感謝していたと。そう伝えてはもらえないかしら?」
それは、この街の支配者としての命令でも、対等な魔女としての交渉でもなかった。
数百年を揺りかごの中で過ごした一人の「妹」が、先を行く「背中」へ向けて放つ、魂の叫び。魔女同士の邂逅が奇跡に近いものであることを知っているからこその、フリーダの切なる願いだった。
「そう、もう一言付け加えておくわ。『愛しています』と」
うっとりとした表情を隠そうともしないフリーダ。
「……気が向いたら、伝えておくわ」
エンヴァは素っ気なく答えたが、その胸中には重い石が沈んだような感覚があった。
この世界を裏から操り、帝国さえも玩具にしてきた巨大な存在が、今、その命の灯火を消そうとしている。
「……愛、感謝ね。魔女にそんな言葉、似合わないわよ」
「ふふ、そうね。でも……最後に残るのは、そんな不確かな感情だけなのかもしれないわ」
ラウンジに落ちる沈黙は、もはや冷たい断絶ではなく、温かな泥濘のようにエンヴァの足元を絡めとっていた。フリーダが伏せた瞳の奥に宿る黄金の光が、遠い過去の糸を一本ずつ手繰り寄せる。
「……最後にもう一つだけ、教えてあげるわ」
フリーダは、空になったグラスをそっとテーブルに置いた。
その動作一つに、数百年を「妹」として過ごした者特有の、諦念にも似た優雅さが宿る。
「あのお姉様はね、あなたに『愛』を教えたかった。……若い魔女にそう生きてみて欲しかったの」
「…………」
エンヴァは言葉を失った。黄金色の瞳が、微かに揺れる。
「あまり多くを語る方ではなかったけれど……。私は、ずっとそう思っていたわよ、エンヴァ。」
帝国の第三皇女として産み落とされた、あの忌まわしい過去。
運命の歯車は、残酷なまでに噛み合い、そして外れ、また別の歪な形で噛み合っていった。
その結果として、エンヴァはセトとミーナという、自分を「駒」ではなく「一人の人間」として愛してくれる二人の理解者に出会えたのだ。
愛に溢れ、欠落を埋めるような、あの眩しすぎる日々。
(……あれも、あのお姉様が糸を引いていたとでもいうの?)
もし、あの温かな思い出さえもが魔女によって編み上げられた「脚本」だったとしたら。
エンヴァは、喉の奥に込み上げる得体の知れない熱を飲み込んだ。それが、あの方なりの歪んだ慈悲だったのか、あるいは何かの実験だったのかは、もう誰にもわからない。
「……礼を言うわ、フリーダ。おかげで、胸糞悪い夜になりそうだもの」
「ふふ、それこそ魔女の社交というものよ」
エンヴァは立ち上がり、真紅のドレスを翻した。
背後でフリーダが小さく手を振るのを感じながら、彼女は一度も振り返らずにラウンジを後にする。
会場を出ると、冷たい夜風が火照った頬を撫でた。
工場の馬車の中で、待っていたクラリッサの手を無言で握る。
その温もりだけが、今、エンヴァにとって「編まれた運命」を超えた、唯一の真実だった。




