世界はとんでもないことになってんのに、アリスは元気にパン生地をこねる
アリスの証言は、ドワーフやエルフたちによって慎重に裏付けが取られた。
そして――その話は、瞬く間に各国へと広がっていく。
「獣人国で、王家が侍女を拷問した。」
「外国人への差別が常態化している。」
「理由もなく拘束される。」
「隊商への嫌がらせも日常茶飯事。」
各国は静かに動き始めた。表向きは何も変わらない。
だが水面下では確実に、「獣人国との付き合い方」を見直し始めていた。
◇◇◇
「ナンシーさん、これぐらいですか?」
「そうそう!もう少し力抜いて。」
ジンの妻・ナンシー指導の元、パン生地を捏ねるアリスを見て、ヒルデは額を押さえた。
「……早すぎる。」
「え?」
「回復するのが。」
いくら回復魔法をかけたとはいえ、身体への負担はそれなりに大きい。
特にアリスは瘴気まみれの"死の谷"に瘴気よけのマスク無しで長い時間放置されていた。
普通なら数か月は寝込む。それほどの重傷だった。
だというのに……。
今ではパンを捏ね、薪を割り、村中を歩き回っている。
ヒルデは考えたが……。
「理屈で説明できない。」
そして、考えるのをやめた。
以上。
◇◇◇
外ではニックたちが木箱を椅子代わりに腰掛け、話し込んでいた。
「しかしなぁ。」
ニックが腕を組む。
「いきなり難癖付けられて拘束って、普通あるか?」
「あるみたい。」
ヒルデが肩を竦める。
「私の従弟が、巡礼の為に獣人国へ訪れた時の話なんだけど。」
「ほう。」
「平民の子供が、魔晶石の原石を売買の為に商店へ持ち込んだら。」
「うん。」
「突然、通りかかった貴族がな。『それは私の物だ!』『そこの薄汚い子供が盗んだ!』って騒ぎ始めたんだって。」
「……は?」
「見かねた従弟と周りの冒険者たちで止めに入ったらしい。」
「店主は?」
「“この国じゃ日常茶飯事です”って。死んだ目で言ったそうだ。」
ニックは天を仰いだ。
「山賊じゃねぇか。」
ヒルデは静かに首を振る。
「その子ね。両親のおつかいだったんだって。
父親はぎっくり腰。母親は風邪。姉たちは看病。で、その時動けるのが、その子だけ。」
ニックは深いため息をつく。
「とんだとばっちりだな……。」
腕を組み直す。
「うーん……取引、考えた方が良さそうだ。」
一方、人間国。
「えぇ~~?」
国王は目を丸くした。
「そんな野蛮なの?あの人たち。」
宰相は書類をめくる。
「自らを”誇り高き獣人族”と称しておられますが……。」
外務大臣は苦笑した。
「だから時々話が噛み合わなかったのか。」
「納得しました。」
公爵が新たな報告書を机へ置いた。
「陛下。追加の調査結果です。」
国王が報告書を手に取る。
「隊商へ言い掛かりを付け、積荷を没収した事案。十四件確認されました。」
国王は首を傾げる。
「それ、どれぐらいの期間?」
「半年です。」
「「「半年ぃぃ!?」」」
部屋中に悲鳴が響いた。
「……それ、国の話?」
「国の話です。」
「え?……街道で山賊に襲われたとかではなく?」
「国の話です。」
沈黙。
「……マジで?」
「陛下、信じられないかもしれませんが、マジです。」
公爵は淡々と続ける。
「更に、各国使節団への嫌がらせも恒例行事です。」
外務大臣が青い顔をして、国王を見る。
「陛下。渡航禁止勧告をご検討ください。」
「そうだよねぇ……。」
国王は頭を抱える。
「でも魔晶石。あそこから輸入してるんだよねぇ……。」
「あー……。」
重苦しい沈黙が流れる。
しかし、その沈黙を破るかのように、バタン!と激しい音と共に、従者が飛び込んでくる。
「陛下!魔国より書状です!」
「読み上げて。」
従者は封を切った。
『獣人国の噂は耳にしております。』
『正直申しまして、あのような野蛮な国と取引を続けるのは恐ろしく存じます。』
『さて。』
『我が国は魔晶石の原石を獣人国へ輸出しております。』
『加工技術では敵いませんが、知り合いの加工職人をご紹介できます。』
『よろしければ、直接お取引なさいませんか?』
部屋が静まり返る。
国王はゆっくり立ち上がった。
「……今すぐ返事を書こう。」
一拍置いて、宰相へ命じる。
「魔国へ。すまぬ。ぜひ、交渉をお願いしたい。」
宰相は深く一礼する。
「かしこまりました。」
その日、獣人国が長年築いてきた外交上の優位は、誰にも気付かれないまま、静かに音を立てて崩れ始めた。
そして、当の獣人国では――。
王太后は紅茶を口に運びながら、静かに頷いていた。
「これで王家は守られました。」
本人は、本気でそう信じている。
一方、ウィリアムは部屋へ閉じこもり、アリスの遺品を胸に抱いて涙を流していた。
「……アリス。」
誰の声も届かない。
そして、ベアトリスは机いっぱいに積み上がった報告書を前に、胃薬を一気に飲み干した。
「お嬢様……。」
侍女が恐る恐る声を掛けると、ベアトリスはゆっくり顔を上げた。
「……仕事しなさいよ。」
「え?」
「王太后陛下も、ウィリアム陛下も、大臣たちも。
全員……仕事しなさいよぉぉ!!」
その叫びが王宮中に響くことは、残念ながらなかった。




