勤務時間中なので、労災おりますか?
冷たい地面へ、乱暴に身体が投げ捨てられた。
「……これで終わりだ。」
兵士の一人が吐き捨てる。
眼下に広がるのは、誰も近寄らない”死の谷”。
黒い霧のような瘴気が谷底を覆い、生き物が足を踏み入れれば二度と戻れないと言われる場所だった。
「瘴気で勝手に死ぬ。」
「死体も残らん。」
「手間が省ける。」
兵士たちはそれだけ言うと、振り返ることもなく立ち去っていく。
足音だけが遠ざかっていった。
アリスは薄く目を開けた。
全身が熱い。息を吸うだけで胸が痛む。
腕も脚も思うように動かない。
(……終わったかぁ。)
ぼんやりと空を見上げる。
青空だけは、やけに綺麗だった。
(私の人生……。)
小さく笑う。
(笑えるなぁ……。)
毎日働いて、ご飯食べて、寝て。また働いて。
たまにイケメンとお茶して。
それなりに楽しかった。
(お父ちゃん……。)
薪割りを教えてくれた大きな背中が浮かぶ。
(お母ちゃん……。)
「ちゃんと食べなさい。ちゃんと寝なさい。
人様に迷惑掛けたらだめよ。」
何度も聞いた言葉が蘇る。
(ごめん……。)
喉から声は出なかった。
(十九歳で終わるなんて、思わなかったなぁ……。
この歳で、そっち行くことになるなんて……。私、親不孝だね……。)
ゆっくりと視界が霞んでいく。
そして、アリスの意識は静かに途切れた。
◇◇◇
「……アリスが?」
ベアトリスは公爵邸で、アリスが行方不明になった事を聞く。
(まさか……王太后陛下が……。)
嫌な予感が頭をよぎる。
王太后は誰よりも、獣人族である事を誇りとし、そして……誰よりも"人間は穢らわしい者"という固定概念に囚われていた。
(いいえ、まだ疑うのは早い。)
ベアトリスはゆっくりと顔を上げる。
「調べて。悟られないようにね。」
一拍置いて、続ける。
「それから……アリスを探して。あの子は絶対どこかで生きてる。」
「「はい。」」
侍女たちは慌てて部屋を出る。
(アリス……どうか無事で……。)
ベアトリスは、ただ純粋に、アリスの無事を祈った。
◇◇◇
二週間後。
獣王家に代々伝わる病から回復したウィリアムは、自室で静養していた。
コンコン。
「入りなさい。」
扉が開き、王太后が静かに部屋へ入ってくるが、その表情はどこか沈んでいた。
「母上?」
「……ウィリアム。」
王太后はゆっくりと息子の前へ歩み寄る。
「貴方に、伝えなければならないことがあります。」
「何です?」
しばらく沈黙が続き、王太后は小さく目を伏せた。
「侍女たちが知らせてくれたの。
アリスが……亡くなったそうよ。」
「……え。」
ウィリアムの思考が止まる。
「森へ入ったそうです。
貴方の病を治す薬草を探しに。」
「そんな……。」
「そこで崖から足を滑らせたと。
遺体は……深い谷へ落ちてしまい、回収は叶いませんでした。」
「嘘……だ。」
ウィリアムの手から本が滑り落ちる。
「そんなはずがない……アリスが……。」
王太后は息子の肩へそっと手を置いた。
「最後まで、貴方を案じていたそうです。」
「……っ!」
ウィリアムの瞳から涙が零れ落ちる。
「アリス……!すまない……!私が……私が守ると約束したのに……!」
堰を切ったように涙が溢れる。
王太后は静かにその背中を撫でた。
「忘れなさい。」
「時間が、全てを癒してくれます。」
「そんなこと……!」
ウィリアムは声を震わせながら泣き崩れた。
自分が病に倒れたせいで。
もっと早く会いに行けていたら。
もっと早く彼女を守れていたら。
何度悔やんでも、もう遅い。
王太后は泣き続ける息子を見つめる。
その瞳に、迷いはなかった。
――全ては王家のため。
彼女は、そう信じていた。
◇◇◇
王都から遠く離れた”死の谷”。
黒い瘴気の中を、重たい荷車がゆっくりと進んでいた。
「親方ぁ!こっちにドラゴンの骨ありますぜ!」
「おう!掘れ掘れ!」
瘴気避けのマスクを着けたドワーフの鍛冶職人たちが、今日も鎧の材料となるドラゴンの骨を採掘していた。
その時だった。
「……ん?」
一人の若い職人が足を止める。
岩陰から、白い手が覗いていた。
「親方。」
「なんだ?」
「……人です。」
「はぁ?」
親方は慌てて駆け寄ると、泥と血にまみれた少女が倒れていた。
首筋へ手を当てた瞬間、親方は目を見開いた。
「この子……生きてるぞ!!」
「なにぃ!?」
「この瘴気まみれの谷で、マスクも付けずにか!?」
「あり得ねぇ!」
「いや、そんなことより死にかけてる!」
親方は少女を抱き上げる。
「急げ!」
「村まで運ぶぞ!」
「エルフの先生を呼べ!!」
ドワーフたちは一斉に駆け出した。
まだ消えていない、小さな命を繋ぐために。
獣人国では「死んだ」とされた少女は、この日、ドワーフたちに命を拾われた。




