二人の前途
俺が離婚届を引っ込めた2、3日後の朝、桂子が意を決した様子で言ってきた。
「昭夫さん、私のせいで『適応障害』になってしまったのね。
私が全面的に悪かったわ。ごめんなさい。
やっぱり、昭夫さんが言うように、二人、離れてそれぞれの道を行く方がいいわね。
今日は仕事をお休みして、これから市役所へ相談に行ってくるわね。
これから私、独り立ちしなきゃならないから、家探しやこれからの生活について相談してくるわ」
俺はびっくり仰天したが、桂子がそこまで決心してくれた事が嬉しかった。
支度をして出て行く桂子の背中はどこかしら不安気ながらも頼もしかった。
その後、しばらく天井を見上げていた俺は、ふと思い立って押し入れの中を片付け始める。
桂子が不在の静寂の中、俺は「本当に一人になった自分」を疑似体験していた。
コールセンターでの冤罪、社会からの孤立、そして妻さえも失うという「本当の虚無」に直面し、猛烈な恐怖と猛烈な寂しさに襲われる。
ふとよぎる、怒りや自暴自棄の底にある「甘えと執着」
離婚届を出したのは「惨めな自分を見せたくない」「これ以上傷つきたくない」という防衛本能だったのか……
しかし、いざ現実味を帯びると、「この世で唯一、自分の無実や苦しみを知っている(知っていてほしい)存在」である桂子を手放すことが、自分という人間の存在否定につながるような気になってくる。
部屋を見渡す中で、若き日の記憶(一緒に乗り越えてきたお互いの苦しさの中でのささやかな幸せ)がふと蘇る。
(俺たちはいつからこんな風になってしまったんだ……。あの頃の二人に戻りたい)
桂子は夕方、帰宅した。
息を切らしながら、俺に経過報告をする。
「昭夫さん、市役所で相談したら、生活サポートをしてくれる団体を紹介されたのよ。
来週の予約が取れたわ」
そんな桂子に対し、俺はただ力なく座り込んでいた。
部屋の明かりもつけず、夕闇の中でポツリと話し始めた。
「……桂子、ごめん。俺、強がり言ってた」
「離婚届を出した時は、お前に愛想をつかされる前に、自分で自分を捨てようとしてたんだと思う。でも……お前がいない家で一人でいたら、頭がおかしくなりそうだった」
「コールセンターで濡れ衣を着せられて、俺の人生は全部嘘だったみたいに思えて……でも、お前と過ごしてきた時間まで消えてなくなると思ったら、耐えられなくなったんだ」
「押し入れの奥を片付けようとしたら、昔、二人で旅行に行った時の写真が出てきてさ……
あの頃も金がなくて、ボロい宿だったのに、俺たち笑ってたろ。定年になったらもっと楽させてやれると思ってたのに、なんで俺はこんな、惨めなバケモノみたいになっちまったんだろうな」
「身勝手なのは分かってる。でも……やっぱりお前と別れたくない。俺を一人にしないでくれ」
黙って聞いていた桂子は、涙をポロポロと溢しながらその場にへたり込んだ。
「昭夫さん、そんな風に言ってくれて嬉しいわ。
ありがとう。
私が悪かったのよ。昭夫さんを困らせてばかりいて。とうとう昭夫さんを病気にしてしまって。
ごめんなさいね」
これで終わりではない。我々夫婦のこれからはまたしても前途多難であろう。
二人のドタバタ劇は、まだまだ続く。




