私、ダメ元で頑張るわ
*(あぁ、もう俺は、一生ここから逃げられないんだな)*
観念した俺は、残りの人生をこの桂子という怪物とどう折り合いをつけながら生きていこうか、しばし思いを巡らせていた。
コールセンターで身に覚えの無い濡れ衣を着せられ社会から孤立してから、俺は残りの人生を一番に好きな読書をして静かに過ごすつもりでいた。
だが、現実は思い通りにはいかないもの、読書にふけりたいところ、いつも桂子から邪魔が入る。この女房は俺の顔を見る度に何だかんだとつまらない話を振ってくる。
適当に相手をしてやり過ごしても、その後数十分も持たずまた話しかけてくる。
俺は正直、桂子の相手をするのに辟易していた。
そんな日々が続き、前回の鬼気迫る離婚騒動から何日か経ったある日、桂子がまた奇妙な提案をしてきた。
仕事を辞めると言えば離婚されるからと、桂子なりにない知恵を絞ったのだろう。
「昭夫さん、私ね、次の仕事を見付けて転職するわよ」
俺はもうどうでもよくなり、
「そうか、桂子。好きなようにやってみろよ」
どうせ、転職先など見付かるわけがない。桂子ももうかなりの年齢だ。スキルもほとんど無いに近い。今更、他にどこに雇ってくれるところがあるというのだ。
「昭夫さん、私、自信はないけれど、ダメ元で頑張ってみるわね」
「そうだな、桂子。やれるところまで何でもやってみなさい。」
桂子はやる気満々なようだ。俺の女房はどこまでも能天気で浅はかな女だ。
“せめてそろそろ自覚しろよ”
俺は心の中で思い切り叫び、ようやく訪れた静寂に胸を撫で下ろして本に目を落とした。
だが、俺の「静かな老後」という淡い期待は、わずか三分後に脆くも崩れ去ることになる。
パタパタと廊下を走ってくる足音。ドタバタとリビングのドアが開く。
「昭夫さん! 志望動機の『貴社の理念に感銘を受け』って、なんて書けばいいの? そもそも理念ってなぁに?」
「……企業の考え方のことだ。求人票のトップに書いてあるだろ」
「じゃあ昭夫さん、私の代わりにいい感じに文章にして!」
なぜ俺が、桂子の転職活動のゴーストライターをさせられているのか。
さらに夜になると、今度は「面接の練習につき合って」と、リビングにポツンとパイプ椅子が置かれた。俺はなぜか面接官役に据えられ、「長所と短所は?」「前の仕事を辞めた理由は?」と問い詰める羽目になった。
「えーっと、長所は明るいところで、短所は昭夫さんに怒られちゃうところです!」
「……不採用だ」
コールセンターで濡れ衣を着せられ、社会から隠遁したはずの俺の日常は、いまや桂子の「ダメ元就活スクール」のスパルタ講師へと成り下がっていた。
俺の手元にある文庫本は、今日一日でわずか三ページしか進んでいない。




