ついにその時が来たか…
まただ。
桂子が、帰って来るなり今日で仕事を辞めると言い出した。
「昭夫さん、今夜、仕事先にメールするわね。精神状態が重篤化したから、急ですがって退職願を送るつもり」
「何を言ってるんだ?散々話し合って、桂子は仕事を続ける事にしたばかりだろう。よく頭を冷やして考え直しなさい」
「だから、気が変わったのよ。もう決めたから」
あぁ、これだから、もう……。
俺の中で、とうとう堪忍袋の緒がプッツンと切れた。もう、限界だ。
「桂子、わかった。それなら、離婚する」
「昭夫さん、前にも言ったけど、あなたがいくら離婚するってがんばっても無駄よ。私は離婚する気はないから居座り続けるわよ」
「そうか、桂子。それなら、俺はこのマンションを解約して、出て行くぞ。郷里へ帰って弟と暮らす」
「何ですって? 昭夫さん、今、何て? 正気なの?」
俺は黙って、離婚する意志が硬い事を背中で示し、桂子にはそれ以上答えなかった。
しばらくして、桂子は半狂乱になった。泣き喚くその姿は、文字通り想像を絶するものだった。
「昭夫さん、ずっと言ってたじゃない! 生き物を飼ったら最後まで責任を持たなきゃいけないって。お父さまの遺言だって!」
「あれは、嘘だったって言うの? 噓つきー!!!」
俺は動じなかった。ただじっと桂子の傍らで横になり、静かに目を閉じていた。ここで情を見せたら負けだ。
桂子はありとあらゆる知人友人に電話し、涙ながらに助けを求めたが、満足のいく答えを得られなかったのだろう。すっかり自暴自棄になっているようだったが、翌朝の早い時間になって、ぽつりと言った。
「昭夫さん、わかったわ。私、仕事は続けます。それなら離婚しないわよね」
俺はもう別れる気でいたため、今さら桂子が折れてきたところで、どうしていいものか返答に窮した。
「離婚しない?……わからないよ」
咄嗟にそんな答え方しか出来なかった。
「わからないって……どうして?」
翌日、桂子は仕事を休み、市役所へ電話していた。
昨日とは打って変わって、割と冷静に、事の顛末を支援課の職員へ伝えているようだった。
「……法テラスですか? そこへ連絡すればいいんですね?」
桂子の電話する声が、俺の耳に突き刺さった。
*(え、ちょっと待てよ。今、法テラスと言ったか?*
*しまった。そう来たか。法律のプロを介入させて、俺を経済的に干す気か。俺としたことが、完全に悪手を打った……!)*
電話を終えた桂子が、俺に確認を取った。
「昭夫さん、私、仕事は続ける事にしたけど、それでも、昭夫さんは離婚するのよね?」
「いや、しないよ」
俺はまた、咄嗟に言った。脳で考えるより先に、口が勝手にしゃべっていた。
「桂子、離婚するわけないじゃないか。お前は俺の大事な女房だろう」
「へ? 昭夫さん、でも、昨日は、さっきは……」
桂子は、まだ疑わしそうに俺を見ていたが、離婚を免れたことがわかると、その場に崩れ落ちるようにへたり込んだ。
「何よ、それ……何なの? 私、色んな人に言っちゃって。何て言って謝れば……」
困惑の色を隠せないでいた桂子だったが、それでも、その顔にはあからさまな安堵の笑みが浮かんでいた。
*(あぁ、もう俺は、一生ここから逃げられないんだな)*
俺は、静かに観念せざるを得なかった。




