不覚にも最後の切り札を使う
物干し箱のレンタルトランクルームの一件以来、我々夫婦の間には、最近また不穏な空気が流れ始めていた。
台風と猛暑が交互にやってくる、心身ともに滅入るようなある日のこと。
案の定、桂子がまたいつもの発作的な発言を繰り出した。
「昭夫さん、私、今度こそ仕事を辞めるわよ」
「またかよ。どうしたんだ一体。また職場で何か勘違いでもしたのか?」
「何が勘違いよ。私は私なりに、いろいろ真面目に考えているの。私はね、やっぱり生産性が低いから仕事を辞めるべきなのよ。そもそも、働くこと自体に向いていないんだわ」
「生産性が低い? またそんな気弱なことを。どうせ最近のこの暑さだ、通勤に疲れて嫌になっただけだろう?」
「断じて違うわ。私が仕事を続けるなんて、社会に対して不公平なのよ」
……不公平?
桂子がまた、わけのわからない独自の論理を展開し始めた。いちいち真に受けて議論していたら、こちらの身が持たない。
ここはひとつ、手っ取り早い「あの手」で簡単に片付けるとしよう。
「いいか、桂子。お前が仕事を辞めるって言うなら、俺はお前と離婚するぞ」
桂子がピタッと口を閉ざした。
よし、美味くいった。案外、チョロいもんだ。
胸をなでおろしたのも束の間、桂子が静かに首を傾げた。
「昭夫さん。私が仕事を辞めたからって、それが離婚の事由になるわけないじゃない。そうでしょ? 私が浮気でもしたっていうなら話は別だけど」
……そう来たか。
いや、確かにこの桂子と「浮気」という単語ほど、どうあがいても結びつかないものは他にない。
「昭夫さん、今『こいつが浮気なんてできるわけない』って思ったでしょ。論点がズレてるわよ」
ぎくう、と心臓が跳ねる。顔に出ていたらしい。
完全に形勢不利だ。これ以上つつかれたらボロが出る。俺は慌てて軌道修正を試みた。
「……いや、桂子。お前が仕事の遅さを気にしているのは分かった。気持ちは理解できるが、作業スピードなんて人それぞれ、どうしたって差が出るものさ。気にしだしたらキリがない。なるべく早くできるように、目の前のことを一生懸命やればいいんだよ。なぁ、桂子。何より大事なのは『継続』だぞ?」
我ながら、とってつけたような説教だなと思いながらも、必死に父親のような口調で宥める。さあ、これで大人しく引き下がってくれればいいが……。
「わかったわよ。昭夫さん、もう少し考えてみる。……じゃあ、離婚の話はナシね」
「あ、ああ。ナシだ、ナシ」
そもそも、いつも「離婚」を人質にして俺を脅してきたのは桂子の方じゃなかったか?
喉まで出かかったそのツッコミを、俺はぐっと飲み込んだ。一刻も早くこの不毛な会話を切り上げたかったからだ。
伝家の宝刀のつもりで抜いた「離婚」という切り札を、こんなにもあっさりと、しかも無駄に消費してしまった。
我々夫婦の、この綱渡りのような不協和音は、一体いつまで続くのだろうか。




